2016年10月 4日 (火)

「問いかけることも、人間にしかできません。ありきたりの答えなら、機械が即座に出す。重要なのは回答より質問です」

本当に久しぶりの更新となってしまった。バタバタしていると時間が経つのが早い。

きのう、大隅良典さんがノーベル医学生理学賞を受賞した。しばらくノーベル賞祭りが続くのだろう。

久米宏さんの言葉を思い出す。TBSラジオ『ラジオなんですけど』(8月27日放送)より。

 「どうして日本人はこう、ノーベル賞とオリンピックになると目の色が変わってしまうんだ…」

 きのうの大隅良典さんの記者会見では、「子供たちへのメッセージをお願いします」との質問に対する言葉が印象に残った。

「今、なかなか自分の興味を伸ばすことが難しい時代になっている。『あれっ』と思うことが世の中にはたくさんある。そういうことの続きを大事にしてほしい」

「わかっているような気分になっているが、何もわかっていないことが世の中にはたくさんある」

「『えっ。何なんで』ということを大事にする人たち、子どもたちが増えてほしい」


確かに、最近の情報にあふれ、ビッグデータに依存する社会では、自分自身や自分の前に広がる世界に対して「分かっているような気分」を持つ傾向が強くなっているのかもしれない。

しかし、目の前に広がるものを「自明」のものとして確認することだけに終わるのではなく、「あれっ」という違和感を大切にする。そして、その世界や事象を、「なんで?」と疑って、自分自身や周囲に問いかけてみる。

大隅さんの言う「なんで?」というのは、すなわち社会や自分自身への問いかけのことなのではないか。

そうした問いの連続が、「発見」や「新しい世界」につながっていく。

アメリカ雑誌『ワイアード』創刊編集長のケヴィン・ケリー氏は、人工知能について次のように語っていた。朝日新聞(9月2日)より。

「問いかけることも、人間にしかできません。ありきたりの答えなら、機械が即座に出す。重要なのは回答より質問です」

そう。問いかけや質問こそ、我々人間がすべきことなのである。

映画『ニュースの真相』で、ロバート・レッドフォードが演じるダン・ラザー氏は次のように言っている。

「質問することが重要だ。批判されても、質問しなくなったら、この国は終わりだ」

2016年7月21日 (木)

「高等教育を受けていると、知識だけでなく、判断力と洞察力が豊かになる。危機に直面したときに国家や権威にだまされずに正しい選択をすることができる」

何となくだけど、前回のブログの続き。

人生は選択の連続。どうすれば、選ぶことに強くなれるのか。

作家の佐藤優さんの言葉。著書『右肩下がりの君たちへ』より。

「父も母も異口同音に『高等教育を受けていると、知識だけでなく、判断力と洞察力が豊かになる。危機に直面したときに国家や権威にだまされずに正しい選択をすることができる』と言っていた」 (P6)

目先のものにだまされず、ちゃんと選択するために知識を身に付ける。そのために教育がある。

かなり前にこのブログ(2011年10月12日) で紹介した埼玉県立浦和商業高校の教員、平野和弘さんの次の言葉とも重なる。

「自由を獲得するために教育はある」

教育は、そういうものなのである。しかし今の教育は、そうはなっていない。

作家の島田雅彦さんの指摘。著書『筋金入りのヘタレになれ』より。

「そもそも学問の習得は、奴隷状態の開放が一番の目標だった。ところがいまは教育機関が逆に奴隷養成の方向にシフトしてきた感にある」

奴隷…。

「選ぶ」ことをしない、できない人生を「奴隷」というのではないだろうか。

私たちは、気付くとどんな「選べない」人生を歩んでいるのではないか。

作家の高橋源一郎さんが聴いたサラリーマンの言葉。朝日新聞(7月13日)より。

「おれ、35年ローンで家を買ったんだ。一生奴隷が確定だ。あとは定年が来るのを待つだけ」

小島慶子さんの言葉。著書『不自由な男たち』より。

「住宅ローンというのは、本当にくびきで、経済的な奴隷になることですよね。35年ローンというおっそろしいものを、あまり今重大に考えないで組んでしまう。ローン、あれはすごい『呪い』じゃないかと思うんです」 (P39)

きっと住宅ローンだけでない…。自分がいつの間にか「奴隷」になっていないように、知性を身につけ、選ぶことに強くなる必要があるのだろう。



2016年7月 8日 (金)

「生きている限り選択は続いていく。生きるたび、選ぶたび、強くなる」

先日、映画『ブルックリン』を観た。アイルランドからアメリカに移民した女性を描いている。

この映画について、毎日新聞夕刊(7月1日)での映画評の中で次の言葉が印象に残った。

「人は自分で思い決心をすることで初めて成熟していく」

この映画での女性は、アイルランドに残るか、アメリカに移るかの選択を迫られ、そして決心して選んで、大人になって行く。文句なく良い映画です。

こちらも先日観たトム・ハーディが主演の映画『レジェンド~狂気の美学~』は、次のセリフで幕が下りる。

 「人生の選択は、死ぬまで続く」

そうなのである。人生は選択の連続である。

だけど、今の日本ではできる限り「選択」を避けるという風潮が強まっていないか。

男性学という学問をしている武蔵大学助教の田中俊之さんの指摘。著書『不自由な男たち』より。

「意味も考えず、1日10時間、週5日間、40年働き続けろと男性は言われ続けているわけです。やはり男性たちにも自分の人生を『選ぶ』ことを提案したいですね」 (P220)

日本の女性の場合、「仕事か、結婚か」や「子供を産むか、産まないか」などなど、人生の様々な場面で「選ぶ」ことを要求されている。知らない間に。映画『ブルックリン』お女主人公のように。

しかし今の日本の男性は…。一度、入った会社で働き続ける。そのまま定年まで。家庭のことにもあまり興味を持たない。人生の至る頃に選択肢あるはずなのに…、男性は「選ぶ」ことをほとんどしない。そういう指摘である。

デザイナーの奥山清行さんの指摘。著書『ムーンショットデザイン幸福論』より。

「日本人が陥りがちなこと。それは『選択肢があるのに選択をためらい。先延ばしにし、いつまでも選択はしない』という態度だ」

僕たちはよりよい人生を手に入れるため、「選ぶ」ことを繰り返していかないといけない。

スペインの哲学者、バルタサル・グラシアンの言葉。

「チャンス(偶然)ではなく、チョイス(選択)が運命を決める」

こちらは養老孟司さんの言葉。毎日新聞(2011年1月11日)より。

「人生の大事はどのような選択をするかでしばし決められる」

そして、人生だけではない。よりよい社会を手にするためにも我々は「選ぶ」ことを避けてはいけない。

あさって日曜日(7月10日)は、参議院選挙である。個人的には、とても大事な選挙だと思う。だけど最近の国政選挙では、投票率50%くらい。半数の人が「投票」という「選択」から逃げている。

今回の選挙について、今日の朝日新聞(7月8日)『天声人語』に、作家の朝井リョウさんの言葉が載っていた。

「生きている限り選択は続いていく。生きるたび、選ぶたび、強くなる」

よりよい社会を築くためにも、そして自らの人生において「選ぶ」ことに強くなるためにも、選挙には行くべし。そう思う。


2016年6月18日 (土)

「未来を変えるためには、今やることをやらないといけないんだなあと」

きのうテレビを見ていたら、ラグビーの五郎丸渉選手のコマーシャルが流れてきた。その中で次の言葉を口にした。(シチズンのCM より)

「未来を変えられると人は簡単に言う。でも違う。今を変えない限り、未来は変わらない」

「今を変えろ!」


この言葉を調べてみると、もともとは元日本代表のヘッドコーチ、 ジョン・カーワン氏が五郎丸選手に言った言葉のようである。スポーツニッポン(2015年10月13日)より。

「お前が変えないといけないのは、今だ。今を変えなければ、未来は変わらない」

アナウンサーの町亞聖さんも少し前に同じことを言っていた。文化放送『ゴールデンラジオ』(2月3日放送)より。

「みんなよく『未来を変えよう』って言うじゃないですか。だけど、変えられるのは未来じゃなくて今だけなんですよね。未来を変えるためには、今やることをやらないといけないんだなあと」

最近、未来」という言葉があふれている。まもなく始まる参議院選挙のキャッチコピーでも沢山使われるのだろう。

安倍総理は、今年1月の施政演説で「未来に挑戦する国会」と言い、「未来」という言葉を多用した。(『★前のめり社会』

しかし、世間に「未来、未来…」が溢れることで、「今」よりも「未来」が大事、そんな雰囲気が生まれていないか…。

でも、未来を変えるためには、今を変えなければいけない。

作家の赤川次郎さんが、今回選挙権を手にする19歳の若い世代に向けた言葉。東京新聞(6月12日)より。

「若い世代に言っておきたい。未来は変えられるのだ」

「既得権にあぐらをかいている大人たちに『NO!』を突きつけてあわてさせる。痛快じゃないか。さあ始めよう」


そう。今の政治家たちに「Yes」と「No」を突きつける。そうやって自分たちの「今」を変え、そして「未来」を変えていく。それが選挙。

マエキタミヤコさんの言葉。著書『原発をどうするか、みんなで決める』より。

「社会は可変です。なのに、『何をいっても無駄、変わらない』と思っている人がいかに多いことか。そう思っているから社会は変わらないのです。それはもったいないし、とても悔しいことです」 (P14)

おそらく“今を変える”というのは、“今の社会を変える”ということでもである。

しかしながら、である。日本の社会は「変えること」を避ける風潮が強い。そう思う。

心理学のアドラーの研究で知られる岸見一郎さんの指摘。文化放送『ゴールデンラジオ』(5月23日放送)より。

「変わるのが怖い。変われないのではなく、変わりたくない。これまでと違う生き方を選んだら、次の瞬間に何が起きるか予測できない。今までの自分の生き方がいかに不自由で不便であっても、次に何が起きるかを予想できた方が楽だと思う人は変える気を持つことができない」

予測することで安心する社会にいると、変えることが怖くなる。でも、それだと自分が望む「未来」は手に入らない。(『★予測社会』

思い切って一度、変えてみたら、新しい世界が次々に広がってくるのかもしれない。もうひとつ岸見さんの言葉。

「違う人生を選ぼうと思ったら、本当に崖っぷちに立っている感じ。目の前の道が見えなくなっている状態。怖いんですけど、その怖さを一度は乗り切らないといけない。一歩前に進んだら、次の一歩も踏み出せる。一度も前に踏み出したことがない人は、踏み出せない。決心するしかない」

思い切って今を変えていく。それを積み重ねていくことが重要なのではないか。

おととい日米通算ヒットの記録を打ち立てたイチロー選手による言葉。(NTT東日本のCM より)

「確かな一歩の積み重ねでしか、遠くへは行けない。通信の未来も確かな今日の積み重ねでつくられていく」

もともとのイチロー選手の言葉はこちらです。『夢をつかむ イチロー262のメッセージ』より。

「ちいさいことをかさねることが、とんでもないところに行くただひとつの道」 (P74)

私たちが自ら望むような「未来」にたどり着くためには、「今」を小さく変え続けていくしかない。そう思う。

2016年5月30日 (月)

「日米地位協定の下では日本国の独立は神話であると思いませんか」

熊本に行ったりして、バタバタな日が続いて、すっかり更新が滞っている。

沖縄で起きた女性死体遺棄事件。今週23日、沖縄の翁長雄志知事は、安倍総理と菅官房長官に語り掛けたのが次の言葉。

「日米地位協定の下では日本国の独立は神話であると思いませんか」

この言葉を裏付けるような最近、耳にした日米地位協定についての言葉を並べておきたい。

経済学者の金子勝さん文化放送『ゴールデンラジオ』(5月27日放送)より。

「日米地位協定。国辱的というか、植民地的というか、こういうことが日本国内で許されているということに我々がどうしてもっと敏感にならないのか」

「地位協定そのものがこういう不平等な状況で特権意識を生んでいるわけ。地位協定を変えて『いるなら日本の法律にきちんと従ってくれ』というのが普通でしょう。僕はどうして右翼的な人がこの売国的な国辱的なことに対して怒らないか分からない」

「対等の感覚がない。ご領主さまに対する下僕みたいな感覚。」


沖縄国際大学大学院教授の前泊博盛さんTBSラジオ『セッション』(5月25日放送)より。

「日本の保守はアメリカに追従することが保守だと勘違いしている方が多い気がする。日米同盟が大事という」

「これだけの被害、殺人事件が起きているときくらいは、日米同盟より、国民の命が大事と言って欲しい。そういう思いがある」


そのTBSラジオ『セッション』(5月25日放送)より、神奈川県在住のリスナーさんの意見。

「日米地位協定というのは、かつて開国当時に結ばされていた不平等条約と同じなのでは。安倍内閣は『押し付けられた憲法の改正を』と訴えているが、不平等条約の撤廃の方が先のような気がする」

戦後史研究者の豊下楢彦さん著書『昭和天皇の戦後日本』より。

「憲法が『押しつけ』であるとすれば、安保条約も、そして何よりも地位協定こそ『押しつけ』そのものであった」 (P258)

「『占領時代の基本的な枠組み』そのものである日米地位協定の撤廃や抜本改正を提起することなく、『自主憲法』の制定で日本の『独立』を果たすなどということは、文字通り“絵に描いた餅”という以外にない」 (P259)

地位協定がある限り、日本では国民に「主権」はない。アメリカという国が統治を担っていて、その「法」や「事情」が優先される。しかも下請けの日本政府はアンタッチャブル…。

まさに「独立は神話」なのである。

さらに、この体制をアメリカに与え、保管していたのが昭和天皇だったという指摘もある。改めて豊下楢彦さんの指摘。著書『昭和天皇の戦後日本』より。

「昭和天皇にとっては、戦後において天皇制を防御する安保体制こそが新たな『国体』となった。つまりは、『安保国体』の成立である」 (P201)

「『安保国体』とも言うべき体制の枠組みが固められるに伴い、昭和天皇は今度は『象徴天皇』として“後景”の位置から、日本の政治外交路線がこの枠組みから逸脱しないように、節目節目において“チェック”する役割を自らに課すことになった」 (P208)

まさに「アメリカ幕府」ではないか…。

さて、「幕府」はどうしたら店を閉じるのか…。日本の歴史を振り返って見ると、新しい「最高権力者である武官(軍人)」が現れるか、「大政奉還」しかない。日本に住む人たち(国民)が自らの要望で「幕府」をチェンジすることはなかったのではないか…。

どうやったらアメリカが「大政奉還」するか。そんなことを考えてみた方がいいような…。そんな気がする。

2016年4月14日 (木)

「『集う』と『群れる』は違います。個は集い、大衆は群れる」

前回のブログ(4月13日)の続き。

前回では、作家の桐野夏生さんによる「個が強くならなければ“公共”は生まれない」という指摘から考えてみた。

次の言葉も同じ指摘。批評家の若松英輔さん朝日新聞(3月8日)より。

「今、改めて『個』であることの重要さを考えています。この自覚を深めることで、他者との理解を深めていくのではないでしょうか」

そして、若松さんの次の指摘も非常に興味深い。

「『集う』と『群れる』は違います。個は集い、大衆は群れる」

「『群れる』と人は、個々の心にある苦しみや悲しみを十分に顧みることができなくなる。この問題よりも、世に言う『大きな』ことの方が重要に見えてくる」

確かに、日本人は「群れる」ことは日常茶飯事にするが、なかなか「集う」ことをしない。それは「広場」がないことにも通じる。(『広場と民主主義』

個が軽視される、この日本社会。さて、私たちは、どうしていけばいいのか。

改めて作家の桐野夏生さん朝日新聞(4月12日)より。

「日本の現状ではむしろ、もっと個を強くしていくべきじゃないですか。どんどん『私』を主張すればいい。しっかりした個の土台の上に、ほんものの公共は育まれていくと思います」

これは以前、紹介したドキュメンタリー映画監督の海南友子さんが東日本大震災後の社会について語った言葉と同じである。改めて、その言葉を。朝日新聞(3月12日)より。(3月26日のブログ

「誰かに任せておくのではなく、地域や国について自分なりに考え、おかしいと思ったら口に出していく。それは『公』を取り戻していく作業だと思います。そして、そこから『公』も変わっていくのではないだろうか―」

哲学者の鷲田清一さん。学長を務める京都市立芸術大の卒業式(3月23日)の式辞より。


「だれをも『一』と捉え,それ以上とも以下とも考えないこと。これは民主主義の原則です。けれどもここで『一』は同質の単位のことではありません。一人ひとりの存在を違うものとして尊重すること。そして人をまとめ,平均化し,同じ方向を向かせようとする動きに,最後まで抵抗するのが,芸術だということです」

ラジオパーソナリティの吉田照美さん今朝の朝日新聞(4月14日)より。

「権力に都合のいい流れをつくらないためには、やっぱり一人ひとりが考えなければなりません。世の中にあふれる情報の中から自分に必要な情報を感知するアンテナを磨くのも個人です」

「確かに僕は偏ってます。当然です。そもそも人はみな偏っているものですから。偏り具合が違うだけです。すべての人が同じ考えだなんてありえないし、気持ち悪い」


作家の辺見庸さん著書『いま語りえぬことのために』より。

「『われわれ』とか『みんな』という集合的人称を信用してはいけない。そういう幻想への忖度、気遣いというものがいかに事態を悪くしているか。自分で少し自信がないなと思っても、声をあげて言う。モグモグとなにか言う。あるいは、つっかえつっかえ質問する。理不尽な指示、命令については、『できたらやりたくないのですが……』と、だらだらと、ぐずぐずと、しかし、最後まで抗うしかないと思います」

2016年4月13日 (水)

「個がなければ公への認識は生まれない。公への奉仕が強制的に求められるとしたら、ファシズムです」

このブログでは、日々の生活のなかで印象に残った色んな人たちの言葉を並べている。そこから共通に見えるものについて考えたりしている。

このブログを続けながら、僕は「公共とは何だ?」ということについて考えていることが多いと思う。

きのうの朝日新聞(4月12日)には、『公共のゆくえ』と題した特集記事が載っていて、作家の桐野夏生さんがインタビューに答えていた。そのインタビューから。

「公共性とは、いったい何なのか。公共という語が都合よく使われている気がします」

「私たちは、それほど個人として認識されているのでしょうか。一人ひとりの顔が非常に見えにくいですよ。この社会は」

「自分のことを振り返っても、日本は女性が個人として自由に生きつらい国です」

「個がなければ公への認識は生まれない。公への奉仕が強制的に求められるとしたら、ファシズムです」


司馬遼太郎さんも次のように指摘する。NHKスペシャル『司馬遼太郎思索紀行 この国のかたち』(2月19日放送)より。

「立憲国家は、人々、個々の、つよい精神が必要なのです。戦後日本は、まだまだできていません」

しかし、どうやら今の日本では、さらに「個」が存在しにくい風潮が強まっているようである。

 ライターの武田砂鉄さんの今の政権に対する指摘。著書『紋切型社会』より。

「彼らの想定する『私たち』とは個人ではない。『I』の集積ではない。集いまくって『I』を『We』にするのではなく、『We』が切り刻まれて『I』になっていくという算段だ」 (P120)

「目立つ個に個が吸収されて全体化していく、これは個人主義でもなければもちろん民主主義でもない。全体化の後に残るのは、大量のまったく曖昧な単体である」 (P123)

「個」がなくなって曖昧な単体となる…。これは、昨今、政府の締め付けに対して、グズグズになっているメディアの構図と同じである。

TBS『報道特集』キャスターの金平茂紀さん雑誌『世界』5月号より。

「本来は『内部的自由』を確保していたはずの記者やディレクターたちが、組織を守るという大義名分のもとで、個を滅却して組織の論理に進んで従う。自主規制、忖度、過剰なコンプライアンス遵守が横行して、言葉・表現の自由がまさに自壊しかかっているのではないか」 (P71)

作家の森達也さん。ハンナ・アーレントを引き合いに「公共」について述べた言葉雑誌『現代思想』(2015年2月号)より。

「公共の場が特定の色に染まってしまう状況は、望ましくない。というか、同質的な者しかいなくて、まるで全体で『一人』のようになってしまった社会的な場は、もはや公共的空間ではない」

「多様な人が同じテーブルにつき、みんながいろいろな意見を持ち、それぞれが発言できるような状況、それぞれの人が固有名をもって現れるような状況が、アーレントの観点では、公共空間です」


「ところが、日本の場合はそうじゃないんですね。日本社会ではみんな一致していることが望ましい状況とされます」 (P194)

2016年3月26日 (土)

「誰かに任せておくのではなく、地域や国について自分なりに考え、おかしいと思ったら口に出していく。それは『公』を取り戻していく作業だと思います」

前回のブログ(3月15日)に続き、新たに印象に残った「復興」にまつわる言葉を並べます。

宮城・名取市で学習支援塾を経営する工藤博康さんの言葉。朝日新聞(3月25日)の特殊記事『災後考 6年目の先に』より。

「復興、復興と、何だか16ビートで追い立てられ続けているというか…」

「記憶も流されていき、いまも『失い続けている』という感じです。復興という言葉に励まされる人もいるし、それぞれにあっていいと思うんですよね」


同じ記事(朝日新聞3月25日)より。仙台市の出版社・荒蝦夷の土方正志さんの言葉。

 「どうしても東京発の『復興』への違和感が消えない」

「被災地の実態を東京の人に伝えようとしても、使う言葉の意味が違っている。外国文学のように注釈が必要なのではと思うことがある」


社会学者の宮台真司さんの指摘。ビデオニュース・ドットコム(3月19日配信)より。

「今、東北でやろうとしている動き。釜石や沖縄にも巨大な動きがある。これは結局、どの地域も安心・安全・便利・快適という国が決めた標準に近づけていきましょう。標準を超えましょうということ。こうなると、人はより便利な場所に行く、より所得の高い場所に行く」

「どこも入れ替え可能だから。安心・安全・便利・快適というのは利害損得と同じこと。文化と関係ない。道徳的連帯と関係ない。より便利安心、より所得の高いところに出て行ってしまう」


この指摘は、宮城県在住の作家・熊谷達也さん小説『潮の音、空の青、海の詩』の中語られる次のセリフにも通じる。気仙沼市をモデルにした仙河海市に住む「待人の爺さん」による言葉。

「つまり、大漁旗を掲げて船が港に出入りする光景は、仙河海市民には日常のものになっていたわけだ。それが、巨大防潮堤ができたことで、日常から切り離されてしまった。最後の砦とも言えた仙河海市民の精神的な拠り所が、これで消滅してしまったんじゃ」

「内湾の光景と言うアイデンティーを失くしてしまったことで、この街に暮らす人々自身が自分たちの街に魅力を感じなくなっていった」 (P352)

私たちは、安全・安心・便利・快適を求めるあまり、多くのものを失っていないか…。

ドキュメンタリー映画監督の海南友子さんは、東日本大震災後の我々のすべきことについて次のように語る。朝日新聞(3月12日)より。

「誰かに任せておくのではなく、地域や国について自分なりに考え、おかしいと思ったら口に出していく。それは『公』を取り戻していく作業だと思います。そしてそこから、『公』も変わっていくのではないだろうか―」

2016年3月15日 (火)

「気がつけばお役所発注の巨大防潮堤ばかりができている。これでは。ますます忘れてしまわないか、心配です」

今年も3月11日には、宮城・気仙沼市のお伊勢浜海岸で行われた集中捜索活動に参加した。

ボランティア活動のあと、慰霊祭で献花をさせていただき、町はずれにあるその会場から中心部まで2時間あまり歩きながら、いろいろ考えた。

あれから5年である。

気仙沼市内でも巨大な防潮堤や高層の公営住宅も次々と完成に近づいている。いわゆる「復興」が進んでいることになる。

ただ去年も感じたこと(2015年3月13日のブログ)だが、その街の姿には「違和感」ばかりが募る。この先、この街はどういう姿になって行くのか…。

養老孟司さんの言葉。朝日新聞(3月11日)より。

「むしろ、今後の被災地で懸念されるのは、その他の地域の記憶から、忘れ去られることです」

「気がつけばお役所発注の巨大防潮堤ばかりができている。これでは。ますます忘れてしまわないか、心配です」


精神科医の斎藤環さんの次の言葉とも重なる。毎日新聞(3月8日)より。

「忘却に抗するインフラを作らないと被災者は置き去りになる」

社会学者の宮台真司さんの次の指摘も、ストンと腑に落ちる。TBSラジオ『デイキャッチ』(3月11日放送)より。


「その場所が安心安全便利快適だけだと、人はより快適な場所に出て行ってしまう。街が一つの生き物として段々展開していくプロセスが大事」

「街が機能で評価されるなら、人の尊厳はそこでは保たれない。より便利な場所に出て行ってしまって終わり。街が人の予想を超えた生き物だから、歴史を感じさせる街もそう、下北沢や吉祥寺が人気あるのも、都市計画によって作られたというよりも、自然に広がっていったから」

「所詮、『機能』なんていうものは、その時の当座の人の便利さを考えて作った『箱』ですから、時間の流れでどんどん風化して基本的にはガラクタになっていく。日本の箱ものは、ほとんどガラクタになっていく。その経験を我々は散々しているはずなのに、また新しいゲームに変えるチャンスだったのに、変えられず。従来のゲームをまた『復興』と称して繰り返しているだけなのが、現在の実態です」


僕が、定点観測のように毎年気仙沼市で見ている「復興」による街づくり。どんな姿になって行くのだろうか。誰かが、全体像、グランドデザインを描いてそれに導いているのだろうか。

残念ながら、そうは思えない。住民だけでなく、市長などの政治家も含め、誰も、どういう街が出来上がっていくのか想像できていないのではないか。今や勝手に動き出した「システム」が、さらに自然や人々の暮らしを蹂躙しながら、誰も意図しない街を作っているのではないか。そう思えて仕方ない。

新しい国立競技場の聖火台の問題について、宮台真司さんが指摘していたことは、そのまま「復興」にも当てはまる。TBSラジオ『デイキャッチ』(3月4日放送)より。

「各自が自分に与えられた権限の範囲で考えているだけで、基本的に全体像をイメージする人がいなかった」

「これは以前の戦争、大東亜戦争、太平洋戦争の時にも問題になったこと。セクショナリズムが存在し、手続き主義が存在し、各自がその中で、カッコつきの『頑張っている』のでしょうけど、全体像を見渡す人がいない。本当はそれを政治が、政治の機能を果たす何かが行うべきなんですが、そういう部署が日本にはないということ」


こちらも宮台真司さんビデオニュース・ドットコム『大震災でも変われない日本が存続するための処方箋』(3月12日配信)より。

「行政官僚の各々は、自分たちの、自分の職掌(ロール)を一所懸命果たしている。それが組み合わさって全体になるはず。なのに、全体を見る人がいない。全体を見て指令する人がいない。誰も全体を観察していない。そんな状態で、みんな『私は仕事をちゃんとしている』と思っている。これが病」

「ふつうは全体を観察するのが政治の機能。政治家の機能でもある。基本的にみんな部分的な最適化しかしない。だから全体としては合成の誤謬となる」


「競技場はオリンピックのために作る。それなのに聖火台を作ることをだれも考えていなかった…。これはすごいこと」 (パート①27分ごろ)

政治学者の小熊英二さんも同じ指摘をする。朝日新聞(3月9日)より。

「役人は仕事熱心で、被災者は我慢強く従い、国民も善意にあふれている。なのに、なんでうまくいかないのか。そう聞かれる。私が思うに、それぞれの部局ではみんな頑張っていても、全体を見て大局的な判断をする人がいないのです」


部分的な最適化だけが行われてしまい、全体は誰も望まない方向に進む。被災地、原発、五輪会場…、こうしたことがアチコチで行われている。これが日本の病なのだろう。

改めて、宮台真司さんTBSラジオ『デイキャッチ』(3月11日放送)より。

「3・11以降の東北で起きていることは、今後日本で起こることのひな形なんです。今後、日本がいろんなところで立ちゆかなくなった時に、例えば東北が新しいゲームを初めて復興することに成功していれば、それを見本にして僕たちも新しいゲームを始められるんですけど。残念ながら東北が見本を示すチャンスを政治と行政が完全に潰してしまいました。同じことがおそらく東北以外の場所でもこれから起こっていく可能性が高い」




2016年3月 9日 (水)

「日記をつけることで、実に多くのことを、葬り去る」

今回は、ちょっと「雑感」として。

このブログは、目についた「言葉」のメモがわりに始めたもの。そして自分が日々、どんな言葉が気になっているか、の「日記」のつもりで、タイトルに「その日記」と付け加えた。

そんな言葉をいくつか並べると、ひとつの「文脈」が生まれ、それまで自分には見えてなかったものが見えたりする。

今回は、このブログを書いていく上での自分の気持ちと重なる言葉を並べてみたい。

先日、日本映画のアカデミー賞が発表され、最優秀作品賞には映画『海街diary』が選ばれた。僕も好きな作品で、このブログでも取り上げた。(2015年6月24日と、7月23日のブログ

その監督、是枝裕和さんの言葉。雑誌『SWITCH』(2015年6月号)より。

「タイトルの『海街』という言葉、そしてそこに『ダイアリー』という言葉がついている」

「『海街物語』ではなく『海街ダイアリー』であるということ、つまり日々の時間が積み重なっていく街のはなしだという、その印象を残したいなと思いました」


「四人の姉妹がいて、彼女たちの住んでいる家があり、その周りに街がある。そうやって物語とともに広がっていく風景の中に、人がどういるか、どう自分の居場所を見つけるか、という話だと思ったんです」 (P52)

そう。このブログも、言葉が、そして自分自身が、どう居場所を見つけていくか。そんな感じ。

言語学者の外山滋比古さん著書『知的生活習慣』より。

「情報化時代といわれる時代、頭に入ってくるものも、かつてとは比較にならないほど多くなっているに違いない」

「いかに賢く忘れるかは、昔の人の知らなかった今の人間の課題である」

「忘れ方にもいろいろあるが、文字に書いてみると、忘れやすい、ということをうまく利用するのである。そう考えると、日記は心覚えのために付けるのではなく、むしろ、忘れて頭を整理する効用のあることがわかってくる」


「日記をつけることで、実に多くのことを、葬り去る。小さなことまで書くスペースもないし、時間もない。ここで、多くのことが捨てられる」 (P26)

「そして書き留めておけば、心のどこかで、“もう安心、記録してある”とささやく声がして、本人は知らないが、ゴミ出しが進む。日記をつけ終わったとき、一種の快感を覚えるのは、忘却、ゴミ出しがすんで、気分が爽快になることのあらわれだと解することができる」

「いらぬことを忘れぬために日記はある」 (P27)

そうそう、そうなのである。

そして、作家の高橋源一郎さん『朝日新聞DIGITAL』(1月28日配信) での、鷲尾清一さんとの『折々のことば』についての対談から。

「僕も『折々の社会のことば』を探しているわけです。探してみると、こんなところにあるの?と思うようなところで見つかる。その人がきちんと生きてきたということを、説明している言葉、あるいは説明はしにくいけれど、何かが伝わるような言葉がある」

「一番大切なのは、こういう言葉を聞くとかすかに抵抗がある、言う時に抵抗がある、っていう自分の中の抵抗感です。それが言葉との付き合い方かなと」


わかる。そんな感じ。

すいません。
今日は、このブログの意義を自分で確認するために言葉を並べてみました。



«「自らの無能力に本心では気づいているがゆえの苛立ちが、攻撃的衝撃となって現れる」

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