「時代は陽明学だよ」
自分なりに、いろんなメディアと接していて、同じようなタイミングで、全然、専門分野の違う人が同じようなことを指摘しているのを見つけると、とてもうれしい。表面的には重なったように見えなくても、もしかして同じようなことを指摘しているのかもしれない、と勝手に推測したりするのも楽しい。
日経新聞がきのう(10/26)の電子版で掲載した『日本の若者はなぜ立ち上がらないのか』と題した特集記事が興味深かった。この特集は、内田樹さん、人事コンサルタントの城繁幸さん、中央大学教授の山田昌弘さん、そしてエコノミストで大和総研顧問の原田泰さんの4人のコメントをまとめる形で、日本の若者とデモについて記述したもの。前回の自転車について同様、本題のデモそのものについてではないが、原田氏の「企業」と「若者」の関係についての指摘が興味深かかった。
原田氏は、「企業の採用システムが若者の行動を阻んでいる」と指摘。その理由として、次のように述べる。
「企業社会に入った若者は、その社会の規範に染まっていく。リスクを冒すことは回避され、声をあげない若者が量産される」
さらに、日本の企業というシステムについて次のように指摘する。
「システマチックにうまくいっているように見えるが、一方で社会がどんどん硬直的になってきた。1970年代までは企業社会に入らなくても何とか生きていけたが、今では企業に入らないとリスクが高すぎる。こうした過度の企業依存社会を変える必要がある」
つまり原田氏は、これまで日本社会を支えてきた「企業」というシステムやそれを取り囲む社会そのものが硬直しているにもかかわらず、そこに属する個人個人においては「企業」というシステムに依存する度合いがさらに強まってしまっていると言っているのだとボクは理解した。
さらにさらに。今回の原田氏の指摘の中で、ボクが最も興味深く読んだのは、この日本における企業のシステム硬直化と、中国の清朝末期の状況が似ているという指摘である。
「こうした日本の現状は、ちょうど中国の清朝末期と似ている。中国は『科挙』という官僚試験で優秀な人を選抜した。科挙はそもそも体制が正しいという前提で行われているものであって、科挙に合格した人材からは改革の声はあがらない。この構図は今の日本と全く同じ。過度の企業依存社会が、若者から改革への挑戦意欲を奪っている」
非常に興味深い。つまり、苦労して勉強して科挙という試験に合格して「官僚」になった人が、自分の一生を補償してくれる制度(システム)が世の中とズレていると気付いたとしても、それをわざわざ変えようとはない。反対に、一所懸命にそのシステムを温存するように動けば、自分は生き残れるのでは、と考えてしまっていたということなのだろう。
現在の日本でも、就職難の中、苦労して狭き門の就職先を企業に得る。少なくとも、そこに属している限り、今の自分の将来は補償してくれるんじゃないかなあ、なんて思っている。そんな人たちが、自分たちが属するシステムを変えるわけない。ということになるのだろう。ホント、その通りかもしれない。
この記事を読んで思い出したのが、先日(10/15)に、脳学者の茂木健一郎さんが、自身のツイッターで『ノウハウなんて意味がない、心を整えることこそ大切さ』と題した連続ツィート。
茂木氏は、最近の「ノウハウ」を知ることで世の中に対処しようとする人が増加している風潮があると次のように指摘していた。
「この世をいかに生きるか、ということを考えた時に、外形的なノウハウやチェックリストから行くやり方がある。何分これをしろとか、一日の時間帯の中ではいつやれとか、道具はこれを使えとか、そのような話が現代の日本人は大好きで、私もそんなことばかり質問される」
こうした風潮に対して、次のような批判を展開する。
「昔の日本の学問は、そうじゃなかったんだよね。心を整えること。心のあり方を見つめること。それは、いわば『心の彫刻』。その心のあり方さえきちんとすれば、あとのことはついてくる。昔の人はそう考えていたように思う」
「具体的なノウハウは、わかりやすいようだけど、つまりそれは出来損ないの人工知能のようなもので、状況に応じて臨機応変にやり方を変えるということができない」
そして、この連続ツィートを冒頭に紹介したフレーズで閉めている。
「朱子学なんてぶっつぶせよ。時代は陽明学だよ」。
原田氏が指摘する清朝の末期は、まさに朱子学が行き詰まり、それのカウンターとして王陽明という人物によって陽明学が唱えられた。そう学校で、習ったような気がする。さっそくネットで、「朱子学」と「陽明学」について調べてみた。まあ、基本的なこと、細かいことは飛ばして(それも大事なんだろうけどね)、自分なりの理解したものを書くと、朱子学というのは、「“理”つまり世の中の根本のルールを大事にする思想で、科挙などに使われ、中国の官僚制度を支えたもの」という感じかな。一方、陽明学は、朱子学を批判して生まれたもので、「世の中にあるルールよりも、自分の心の方が大事で、心がともなってこそのルールなんだよ」という感じでしょうか。大体です。大きく違っていたらごめんなさい。
つまり、先の原田氏が指摘した「今の日本の構図と清朝末期の状況がまったく同じ」というのは、ともに「朱子学的フォーマット社会の行き詰まり」のことなのであろう。では、どうすれば我々が、茂木氏のいう「陽明学」フォーマットに展開できるのか。「システム」に極度に依存しない考え方を身につけることができるのか…。これが問題となってくる。
さらに思い出すのが、何年か前に内田樹さんが書籍の中で述べていた「新た強いシステムは、介護とか、育児とかを実際に経験したしか作れない」というフレーズ。内田さんが、このフレーズで言いたいのはまさしく「陽明学」のアプローチ、様々な事象を自分の体で体験した者でしか、今の時代に適した新しいシステムを作りだしたり、運営したりすることはできないということ。これこそ、まさに陽明学の「知行合一」の考え方である。ここを深めていくとおもしろそうで、この勢いで書き続けてみたいのだが、残念ながら昼休みが終わってしまう。それは、また今度書いてみたい。
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