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2011年10月20日 (木)

「そもそも街頭は誰のものか。日本では車のものですが、ヨーロッパでは人間のものです」

今朝(10月20日)の朝日新聞の朝刊が『街に出る人たち』というタイトルの特集を組んでいて、最近のデモについて、3人の方のコメントを掲載していた。

冒頭のフレーズは、そのうちの1人津田塾大学准教授の萱野稔人さんのもの。

まず萱野さんは、デモについてのヨーロッパと日本の違いについて語る。日本については、日本人そのものがデモそのものに消極的なのではなく、警察による過剰な規制・管理によって、一般の人が参加しにくくなっていると指摘する。それに対して、ヨーロッパでは、その警察が車を閉め出し、道全体をデモに開放するため、通りかかった人が簡単に参加することができる、とのこと。

確かに、ボクも6月に行われた「脱原発」のデモに参加して思ったのは、警察に時間やタイミングを徹底的に管理され、デモの列も車道の右隅に押しやられている感じで非常に窮屈なものだった。確かにテレビなどでみるヨーロッパとかのデモは、パレードみたいだったりする。

続いて萱野さんは、デモの状況に続いて、公共空間としての「街頭」について言及する。

「そもそも街頭は誰のものか。日本では、車のものですが、ヨーロッパでは人間のものです。~中略~ 街頭とは、人々が自然発生的に集まり、意思表示をする公共空間です」

この指摘が、ボクの中でスーと居場所を見つけた感じだった。

話は飛ぶかもしれないが、きのう(10月19日)の毎日新聞の朝刊は「自転車走行“歩道は禁止”厳格運用」という記事を掲載した。第一面のトップ記事だということもあり、何人かの知人に、このニュースについて、どう思うかのコメントを求められた。

まず、なぜ彼らがボクに感想を聞いてきたかというと、ボクが自転車乗りだから。それ以上でもそれ以下でもない。ボクは、3年前の10月に子供が自転車に乗れるようになったのをきっかけに、ボクも自転車を買い、それからというもの、通勤をはじめ、ほとんどの移動を自転車で行うようになったのである。この3年で走行距離は1万キロを超え、長年、所有していた自動車も手放した。毎朝、自宅から会社まで行く前に、皇居をグルリと1周走るのが何よりの楽しみでもある。

もともと交通ルールでは、自転車は車道を走るものとされている。しかし高度成長期以降、日本のせまい車道に車があふれ、また日本独特のママチャリなる自転車の進化・普及によって、日本では、いつのまにか、自転車も歩道を走ってよいものとされてきた。その結果、自動車に乗る人たちの多くが、自転車とは歩道を走るものと思っているのではないか。

最近、環境問題への意識の高まりや、震災以降の交通への対策から、自転車乗りがあまりに増え、歩道での歩行者と自転車の事故があまりに増えたため、警察は「自転車は車道」というルールを厳格にしようと動き出したということである。

ボク自身は、この警察の動きについて大歓迎である。肩身の狭い思いをすることなく、堂々と車道を走りたいし、これをきっかけに自転車道の整備も進んでほしい。

そもそも、このニュースを自転車に乗る立場の人にコメントを求めてくる、という人は「自動車乗り」の方々なのである。今回は、例外なくそうであった。「自転車で車道を走って、恐くないの?危険じゃないの?自転車乗りにとって、それでいいの?」という感じで聞いてくる。「恐い」も「危険」も、ボクはいつも車道を走行しているし、恐さはいつもある。その「恐い」や「危険」という要素は、どちらかというと、自転車に起因するものではなく、車道で共存しなければいけない自動車に起因するもの、という気がする。今回の警察の方針転換は、自転車への影響よりも、自動車への影響が大きいのである。車道に自転車があふれるようになれば、自動車乗りも、これまでのように我が物顔で車道を走れなくなる、場合によってはスピードを落とし、自転車の走行を注意する必要が出てくるに違いない。

そのことを自動車乗りの方々に指摘しても、まったくピンと来ていない。きっと心の中では「なんで、我々の場所にテメーラが割り込んでくるんだよ」と思っているに違いない。

そこで出てくるのが「道路は誰のものなのか」という問いである。

「街頭は、人間のもの」なのである。車のものではない。まずは、歩行者が優先され(歩行者の安全が守られ)、次に自転車が優先され、最後に自動車の居場所を作る。というのが本来の道路の「システム」を設計するうえでの正しい順番のはずである。これが日本では、経済優先のためか、順序が逆になっている。もう一度、システムを再設計して、この順序を逆に戻す必要がある。

すなわち「街頭は人間のもの」という前提を取り戻す時期に来ているのではないか。 例えば、ドイツのフランクフルトなんかでは街の中心部に、自転車専用道路や路面電車を整備したり、車の進入の制限を行ったりするなど、自動車に規制をかけ、いろんな手段の人たちが利用できるようにしている。同じ自動車大国とみられているドイツに、自動車への規制ができて、なぜ日本にできないのか。この差はなんなのか?

翻って、デモの話に戻す。つまりは日本の警察にも、「街頭は車のもの」というシステムが完全に刷り込まれているということなのだろう。だから、人が歩くデモは道路を不当に占拠し、「車の邪魔をする行為」「経済活動の邪魔をする行為」と考える。車両による経済活動を守るため、一所懸命にその邪魔をするデモを規制・管理をしようとしているのだろう。

そもそも、日本には明治時代まで、公園というものはなかったという。街道や路地が子どもをはじめとした人々の遊び場でもあったのだ。ボクの小さいころも、路地でよく遊んだ気がする。でも今は時に路地をスピードを落とさず走行する自動車が危険ということで、親も道路で遊ぶことを子どもには厳しく言い聞かせる。当然の状況だ。でも幹線から奥に入ったような小さい路地などでは、もっど子どもが遊んでいてもいいような気もする。

そろそろ、日本でも「街頭」の本来の存在理由を問い直し、そこを自分たちの公共空間として、自動車から取り戻し、いろいろ活用するべき時期に来ているのではと思う。

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