「自由を獲得するために、教育はある」
少し前の話になるが、先日、セミナーというものに顔を出して、埼玉県立浦和商業高校の教員、平野和弘さんの話を聞くことがあった。
冒頭のフレーズは、その講演で平野さんが語ったもの。
今は残念ながら廃校になってしまったが、浦和商業には、3年前まで定時制の高校があった。平野さんはそこで教員として働いていて、そこで学ぶ生徒たちと平野さんら先生の様子は、ドキュメンタリーとして映画『月あかりの下で』や、日本テレビの番組『テージセー』という作品にもなった。ボクはたまたまだけど、その両作品を観ている。定時制の生徒たちと、その先生の関係は普通科の生徒と同じようにはいかない。いろんな事情を抱えた生徒に対して、それでも「教えること」を続ける先生たち。両ドキュメンタリーとも、その様子を生々しく映していた。
長い間、定時制で教えている平野先生に、講演会の終盤の質問コーナーで、聴取者の一人から「先生にとって、何のためにするものですか?」という質問が飛んだ。その答えが、上のフレーズだったのである。
定時制にくるような子供たちは、いろんな環境で育っていて、字も書けなかったり、計算もできなかったりする。そのままでいると、例えば申請書も書くことができない。当然、与えられているはずの権利も主張することもできなかったりする。「一市民」として当然の権利を得て、自らの世界を広げるためにも教育は必要なんだ。という感じで平野さんは理由を語った。
「自由を獲得するために教育はある」、すなわち「リベラル・アーツ」の考え方、そのものなのである。ありふれたフレーズのようでいて、考えれば考えるほど深い。当たり前っちゃあ、当たり前なんだけどね。
ちなみに今回の講演で、この質問をした方は、企業の教育研修担当の人だった。僕にとっては、それが興味深かった。その時、ボクが思ったのは、では企業での社員教育は、何のためにするのだろうか?ということである。「トップに従順なサラリーマンを仕上げるため」「問題を起こさない従業員を増やすため」「お金儲けが上手になり、会社の経営に貢献するため」。今の経営トップの方々なら、そんな理由を挙げそうだ。ボクの勝手な推測だけど。
だけど、ボクは思いたい。企業における教育も「自由を獲得するため」じゃないかと。ありふれた物言いをすれば、教育を受け、自分がパワーアップしたり、視野を広げることで、既成のやり方から自由になり、新しい分野を開拓できるということになるのだろう。それはそうである。ただ、この場合の「自由」には、もう一つ大事な要素が含まれると思う。どういうことかというと「会社から自由になる」ということだ。それは、会社の枠を超えるという意味でもあり、会社からはみ出すという意味でもある。
現在ひかれた既成のルール、フォーマットから、自由な、枠を超えた社員を作るために、会社における教育はあるのではないか。思い切っていうなら、今の会社をあえて乱す存在となる社員を作るために、企業の教育は行われるのではないか。会社のリーダーにとっては逆説的な目的なのかもしれない。でも本来、社員教育というのは、そういうものでないといけないのではないか。そのくらいの覚悟がないと意味は生まれないのではないか。生意気ながら、平野さんの講演を聞いていて、ボクはそう思ったのである。
現在、会社が採用している様々なシステムは、そのまま永遠に機能することはない。そもそも会社という大もとのシステム自体が、いつまで続くものかも分からない。その時々の時勢にあったシステムに改めるという作業は、そのシステムの中にどっぷり浸っている者だけではきっと限界があるのではないか。時には、システムを超えた存在がいないと、新しいシステムはできないのではないか。そういうことである。企業しかり、霞が関しかり、永田町しかりではある。
そう思う理由は、異端者の中からしか、イノベーターは生まれないという事実があるから。やはり先日、亡くなったスティーブ・ジョブスさんの例を出すのがわかりやすい。散々、流通したエピソードだけど、彼は自分で作った会社からはみ出し、いったんは放逐され、そして戻ってきて改革を続けた。会社にとっての「異端者」だったからこそ、彼は会社にも、社会にも「新しい価値」を産み続けてきたのは周知のとおり。
田中康夫氏は、長野知事時代、物事や組織を変えられるものは、「若者・馬鹿者・よそ者」だと言っていた。ジョブス氏によるスタンフォードでの「ハングリーであれ、愚か者であれ」というフレーズは散々、耳にした。同じことである。
一方で、企業で教育を受ける我々は、どういう構えでいれば、「システムにとってのよき異端者」となれるのか。
社会学者の宮台真司氏は、近著『就活言論』で、「ホームベースが必要」と説く。
「働く人間たちは、自分の力で社会の中にホームベースを作っていくしかないと思います。それは家族かもしれないし地域かもしれないし、趣味のサークルかもしれないし、何か別なものかもしれません」
「試行錯誤をするためにも感情的な安全が必要です。人間というのはホームベースがなければ元気が出ない存在で、それがなければ神経症になって、最後には潰れてしまいます」
「帰還場所があれば君は言葉通りに振る舞えるだろうが、帰還場所がなければ、口でなんと言おうが、君には頑張りがきかない」
宮台氏がいうのは、すなわち「帰還場所を失った状況では、仕事でリスキーなチャレンジはできない」ということ。現状のシステムに対して「異端」として作用するには、帰還する場所である「ホームベース」がないといけないということなのだ。ホームベースがあるからこそ、自らをリセットできるし、ホームベースがあるからこそ、仕事の場で闘える。
きっと会社にとって「良き異端者」というのは、会社の教育だけでは育てることができないのだろう。本人の努力や素養の方が大きいに違いない。だけど、会社にそうした異端者を育て、内容していく度量や姿勢がないと、会社自身が永続的には存在できないのも確かではないか。
平野さんのフレーズから、こんなことまで考えてみた。相変わらず、まとまりはないかもしれないけど、個人的には何だか楽しい作業でした。
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