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2011年11月25日 (金)

「新しい物に向き合うからこそ、『希望と不安』がこみ上げる」

ときどき「不安」というものについて考えてみたりする。

小さい頃から塾に行って、良い学校に入って、良い大学を卒業して、新卒でよい会社に入って、定年まで面倒をみてもらい、そして余生を退職金と年金で過ごす。高度成長期以降の分かりやすい日本人のライフモデルのひとつは、こんな感じだったのだろう。この流れも社会の「システム」と考えられなくもない。当時は、一度、うまくラインに乗ってしまえば、死ぬまで大きな逸脱もなく、それなりの人生が送られるというもの。ただし、この流れのどこか途中で逸脱してしまった場合には、その先の人生は、このシステムが保障してくれることはなくなる。そして、その多くの人が読めない先行きに「不安」を感じることになるのだろう。

でも本当に「先が見えないこと」、イコール「不安」なのだろうか。先行きがオートマチックに進まないこと全てを「不安」としてしまうことで、それを忌み嫌う風潮が広がっているのではないか。その結果、オートマチックなシステムに依存する傾向が強まっているのではないか。そんなことを考えたりしていた。

雑誌『AERA』の今週号(11/28)の巻頭コラムで、脳学者の養老孟司さんは、放射能の「不安」について書いていた。

「どうも近頃の人は不安になることが権利だと思っていることが気になる。病気が簡単に薬や手術で治らなかった時代、人間にとって不安は当たり前だった。けれども、最先端の医療技術を施せば、ほとんどの病気は治るような錯覚をしがちな昨今、不安は悪となった。不安だから何とかしてください、不安な状況はおかしいと言い出す」

つまり少し前までの社会では、人間は、いつ病気になるかわからないし、いつ不幸がやってくるかはわからないもの「先の読めない」道を進んでいた。「一寸先は闇」そんな時代。でも反対に言えば、時代が勝手に転がることもあり、予定外の幸せや転機がいつでも起こり得たということでもある。そんな時代には、もちろん不安を感じることなく「死」まで運んでくれる安心できるシステムなんて存在しなかった。先が読めない時代は、常に「不安」がつきまとっていた。

テクノロジーの発達とともに、「不安」がなるべくない社会を作り上げてきたのである。その結果、養老さんが言うように、不安が常在しない状態になり、それは「悪」になった。そんな社会で、仮に「不安」を感じた場合、それはあるべきものではないものと考える。きっと「社会が悪いから、システムが悪いから、不安を感じるのだ」という気持ちになり、声高に「誰かどうにかしてくれ」と主張するようになったりする。原因となるものを徹底的に批判する。

養老さんは、次のように続ける。

「人間、生きていれば不安はつきもの。不安を抱えながら生きなければならない生き物で、不安を前に、そのつど選択を迫られる。ようするに、それが大人なのである」

要は、不安から逃げるではなく、どう不安と向き合って、どう不安と折り合っていくのかが、人間(大人)ということなのだろう。

この養老さんのコラムを読んでいて、「不安」がらみで思い出したコメントがある。正確な日にちは失念してしまったが、茂木健一郎さんがツイッターでつぶやいていたものだと思う。

「人生には、不確実性が原理的に避けられない。どんなに賢くて、どんなに綿密な計画を立てても、必ず予想もできないことが起こる。だから、不確実性をいかに抱きしめるかということ」

「『あなたの人生に、いろんな不確実性なことがあると思いますが、これから何が起きるか。それが楽しみですか?不安ですか?』 予想がつかない。だからこそ、希望を持ち、明日を楽しみに頑張っている」

不確実な、先の読めない場面に遭遇したとき、その先の道をドキドキと「不安」に感じるか、ワクワクと「希望」に感じるか。これだけで大きく違ってくる。もちろん、ただ「闇」に突っ込んでいってもだめ。ワクワクと希望を感じるためには、それなりの準備や経験、知識なんかも必要になってくるのだろう。

同じく、茂木さんは、ツイッターの連続ツイート『新しいことに挑戦すると、それだけ濃密な時間を過ごすことができる』(11/15)の中で、次のように述べていた。

「新しいことに挑戦する時には、大人の胸にだってさざ波が立つ。小学生の時の作文には、『希望と不安』という言葉がつきものだったが、新しい物に向き合うからこそ、『希望と不安』がこみ上げる」

つまり「不安」と「希望」は常にセット。トレードオフの関係ではないのである。

また茂木さんは、最新刊『僕たちは美しく生きていけるのだろうか』の中でこんな風にも書いている。

「『身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ』という『空也上人絵詞伝』の言葉もある。生きるということは、つまり、自分がどうなってしまうかわからない、ということを受け入れることである。自分がどうなってしまうかわからない。それでも構わない。と受け入れて前に進むことによって初めて、切り開かれる道がある」

つまり、そういうことなのだそうだ。

今回、書いていて気付いたのだが、この文章のなかの「希望と不安」というフレーズを、「チャンスとリスク」に置き換えても成り立つ。社会にまんえいする「リスク回避」のコンプライアンス信仰に対する見方としても成り立つわけだ。それについては後日、書いてみよう。

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