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2012年5月 8日 (火)

「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です」

前の回で「法律を踏み越えなければならない場合がある」という話題について、つらつら文章を並べてみたけど、去年の3月、立教大学大学院の卒業式で 卒業生に向けて総長の吉岡智哉さんが語ったコトバにも通じる部分があるので、その一部も記しておきたい。

「既存の価値や思考方法を疑い、それを変え、時には壊していくことが『考える』ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されてはならない。つまり、大学が自由であり得たのは、『考える』という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の『自由』とは『考える自由』のことなのです」

「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です」

さらに、

「皆さんが、『徹底的に考える』という営為において、自分が『社会的な異物』であることを選び取った存在だということです」

「考える」ということには、今の前提・枠組み、すなわち法律をも含むルールや規則そのものなどを疑うことを含んでいる、ということなのである。我々の社会や市民を存続させていくために、今の枠組みを疑うことが必要ということである。

前回引用した社会学者の宮台真司さんは、以下のようにも語っている。

合理的であることに意味がある社会の存続には、合理性の枠外で振る舞える存在が必要で、それが政治家だというのがウェーバーの主張でした。人が重要だということ」

つまり、政治家だろうが何だろうが、自分たちの社会を存続させ、人々を守っていくためには、社会の枠組みや前提を変え、踏み越えていく必要がある。そのためには『社会的な異物』となって『徹底的に考える』ことを続けなければいけないということなのであろう。

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