「この国は、ルールを決めておけば、絶対にそこから外れないというところがあります」
以前、このブログ(今年5/8と去年11/22)で「ルール(規則)主義」と「原則主義」の違いについて書いた。
その「ルール主義」が弊害となったエピソードを耳にしたので記しておく。
TOKYO-FMに『the Lifestyle Museum』という番組がある。ピーター・バラカンさんがパーソナリティを務め、毎週ゲストから話をうかがうという番組である。少し前の5月4日のゲストは、劇作家の鴻上尚史さん。その鴻上さんを相手に、ピーター・バラカンさんは日本人の特性を、次のようなフレーズで表現した。
「この国は、ルールを決めておけば、絶対にそこから外れないというところがあります」
そして、去年の「3・11」の時に経験したエピソードを紹介している。
「ぼくは、3月12日だったか、13日だったか、渋谷駅で電車がやっぱり全部止まっていて、タクシーで帰ろうと思ったんですね。タクシーも全部すごい列だったんですけど、並んでいたらそのうち自分の番が来て、自分の前の所見ていたら、みんな一人一人一人乗っていくんですね。これじゃもったいないと思ってね。自分が乗るときに『同じ方向行く人いますか?』って言ったら、4人くらいすぐに手を挙げたから『じゃ、みんなで乗ろう』と言って。その事を後日、ラジオで話したんですよ。すぐリスナーからクレームというか、文句のメールが来たんですよ」
まだまだ大震災の混乱の続く中で、ピーター・バラカンさんは、少しでも帰宅の人たちの回転を良くしようと、タクシーの「乗り合い」を行ったわけだが、それに対して「タクシーの乗り合いは違法ですよ」という文句のメールが来たとのこと。この話を受けて、当日のゲストの鴻上尚史さんは、次のように語っている。
「すごくおかしいですよね。被災地で実は同じ事が起きていて、救急車って患者を一人ずつ乗せていかないといけない。だから毎回往復しないといけない。つまり関係のない患者さんというか、病人を同時に乗せてはいけないんですよ。本当に東北で起こったんですね。『乗せりゃいいじゃん、まとめて』って言うんだけど、『いや、規則なんです』って言って。でもそれはね。非常事態って事を理解してないですよね」
非常事態でもルールを守ることを最優先してしまう社会。いや、もしかしたら、非常時だからこそ「せめてルールだけでも守ろう」と思ってしまうのかも。
こんなエピソードもある。『命をつないだ道』(著・稲泉連)という本には、東日本大震災の発生当時、道路が破壊されたため、支援物資を運んだりする車両や、救助する車両も通行できない気仙沼の様子が描かれていた。「被災者を守るため、いかに道路を早く復旧させるか」という問題にぶつかった気仙沼国道維持出張所の管理係長である千葉修市氏は、不通となっているJR気仙沼線の盛土や砕石を利用して、国道を復旧することを思いつき、仙台河川国道事務局に許可を求めたということである。しかし、事務局からの回答は、「道路の区域にある砂利はともかく、直接JRの土を取りに行くのは厳しい」というもの。
ここでも、非常事態にも関わらず、平時のルールが適用され、その結果として時間をロスして、被災した人々の命がおそらく失われている。この『命をつないだ道』の著者・稲泉氏は、次のように書いている。
「被災地の切迫した雰囲気を共有できていないと、緊急時の体制にあってなお、縦割りの行政の弊害はしぶとく顔を覗かせる」
きっと、これ以外の様々な被災地や原発の現場でも、同じことが起きていたに違いない。内閣報道官の下村健一氏は、雑誌『世界』6月号で、原発事故をめぐる官僚たちや、東電の人たちの対応について、こんなコトバを投げかけている。
「例えるなら、それまで、きっちりと試験範囲が決められた中で、100点満点をとってきた優等生たちが、試験範囲外の抜き打ちテストを受けたら、いきなり0点になってしまったという印象です」
先にも書いたが、「ルール主義」より、「原則主義」へとスタイルを変えて行かねばならないとシミジミと思う。まずは「人の命を守る」、「人が当たり前に生活すること」、そうした大原則を最優先して、そのためには「ルールは、その都度、更新する」「時には乗り越える」という考え方も必要なのではないか。
『命をつなぐ道』で紹介されている千葉係長は、国道復旧に奔走した当時のことを振り返り、次のように語っている。
「いまから思えば-。自分の判断で、まずはやってしまった方が良かったのかもしれません。一日でも早く道路を通せば、社会への貢献度は、その方が高かった。当然、立場ある人は聞かれたら、すぐに許可は出せません。だから、あの被災地の現場では、そこにいる自分の判断でやって事後報告でも良かったんじゃないか。そうすれば、もっと早く道路を造れたんじゃないか、といまでも思うんです」
さらに津波と原発事故の被害を受けた南相馬市長の桜井勝延さんは、『放射能を背負って』(著・山岡淳一郎)で、次のように語っていた。
「現実を直視して、人間として、ふつうに、当たり前に、ということです」
「彼らの声は、なかなか外に伝わらない。その声なき声を支えるためには法的根拠には従うし、専門家の知見も参考にする。でも現場感覚が圧倒的に重要です。机上論は、現場で通用しない。現場感覚を大切に、人間の良識、常識に従って判断をする」(P144)
国や県の行政の縦割り、慣習主義、ルール主義に振り回された市長のコトバである。
こんな本に載っていたフレーズも紹介したい。自分の子供に工藤純子さんの『ピンポン、ひかる』という本を読んでいたのだが、この中に若菜という主人公の卓球少女が、ミポリンと呼ばれる友達に、次のように思うフレーズがあった。
「あたしは、世の中のルールを変えようなんて思ったこともない。でも、ミポリンはちがう。好きだったら、世の中さえも、変えてやろうと思っている」(P102)
子供向けの本に書かれたフレーズだったけど、「ルール主義」と「原則主義」の違いが出ていて興味深い。「好き」だったり、「大切だ」と思ったり、「大事だ」と思ったりするなら、ルールや世の中を変えるくらいの気概があるべき、ということなんだろう。
以前紹介した脳学者の養老孟司さん(雑誌『中央公論』2011年12月号)のコトバをもう一度紹介しておく。
「自分の目で見て、自分の頭で考えて、ルールを曲げる。そういう感覚をもう日本人はなくしているでしょう、でも『生きている』ってそういうことじゃないですかね」
何度も書くが、そもそもルールは何のためにあるのか?ルールなんて、目的を達成するための便宜上の手段でしかないはずである。しかも「ルール」はすぐに硬直化し、形骸化し、実状とかけ離れていくのである。ある程度先の読めた右肩上がりの時代から、先の読めない新たな時代に入っていく中では、特にそうなると思う。もちろん最低限のルールは必要だし、便利だし、それによって助かることは多々あると思う。それは当然だ。でも、これからは「現場感覚を大切に、人間の良識、常識に従って判断」して、ルールを乗り越え、更新していくことを恐れてはならないのだと思う。
« 「戦後日本人が追い求めた価値観は、経済の豊かさを求めて、人間性を排除し、出来る限り、上意下達の組織や、ロボットのように社会に忠実な人間を生み出すことに集約されたのではないか」 | トップページ | 「他人を幸せにする人間だけが幸せになるんです」 »
「震災・原発」カテゴリの記事
- 「そして、効率性は、多様性を犠牲することによって高められる」(2014.03.20)
- 「しかし、それもこれも、どこかできいたようなことばかりではないか」(2014.03.17)
- 「空気を読めるやつばかりだから、役に立たない。ムラと空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 (2014.03.14)
- 「わたしたちはこの種の熱狂が、必ずしもわたしたちに幸福な未来を約束してこなかった歴史に学びたいと思う。そして、圧倒的な祝祭気分に、あえて水を差しておきたいと思う」(2014.03.13)
- 「考えたくないことは考えない、考えなくてもなんとかなるだろう。これが空気の国の習い性だ」(2014.03.04)
「ルール」カテゴリの記事
- 「だけど野球にはマナーがあります。フェアプレーが大切です。ルールでは規制されないけど、やってはいけないことがあるのです」(2014.02.01)
- 「彼らはクレイジーと言われるが 私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが本当に世界を変えているのだから」(2013.11.05)
- 「でも政治家は、法を守ることに意味がある社会自体の存続のために、必要ならば法の外に出ることを辞さぬ存在でなければならない」(2013.11.01)
- 「間違えて損をするのは怖いから、事なかれ主義で掟に従う。どうして政治家になったのかね」(2013.10.29)
- 「会社の業績悪化や家族の病気など、人にはいや応なく別のニッチを探さなければならない場面がでてきます」(2013.08.28)
「コンプライアンス」カテゴリの記事
- 「しかし、それもこれも、どこかできいたようなことばかりではないか」(2014.03.17)
- 「空気を読めるやつばかりだから、役に立たない。ムラと空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 (2014.03.14)
- 「日本人は大手メディアの信頼性を重視し、誤報を許さない。一方、米国ではアカウンタビリティー(説明責任)を重視する」(2014.01.24)
- 「でも政治家は、法を守ることに意味がある社会自体の存続のために、必要ならば法の外に出ることを辞さぬ存在でなければならない」(2013.11.01)
- 「人間のためのシステムのはずが、いつの間にかシステムのための人間になっている。ここには明らかに転倒がある」(2013.05.30)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
« 「戦後日本人が追い求めた価値観は、経済の豊かさを求めて、人間性を排除し、出来る限り、上意下達の組織や、ロボットのように社会に忠実な人間を生み出すことに集約されたのではないか」 | トップページ | 「他人を幸せにする人間だけが幸せになるんです」 »
このピーター・バラカンさんのエピソード、表題の認識を噛み締める例として、事あるごとに思い返していました。しかし、先ほど知ったのですが、「運転手が介在しないかたちで乗客が相乗りに合意し、料金を折半すること」はOKのようです。
改めて震災でもタクシーに相乗りしない理由を考えてみると、違法だからではなくて、相手に対する遠慮だったり、自分はまだ切羽詰っていないという自分への鼓舞ではなかったのかなと。
日本人がルールに縛られすぎているという点には全く異論はありませんが、このエピソードにはずっと釈然としない思いがあったので、解決した記念に書き込ませていただきました。
投稿: | 2015年10月27日 (火) 11時39分