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2012年7月10日 (火)

「彼は、『民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度なのだが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ』と言っているのです」

先週木曜日(7/5)の朝日新聞に、劇作家の平田オリザさんのインタビュー『ひとりごと国会』が載っていた。政治家の言葉について、内閣官房参与を3年務め、鳩山元総理のスピーチライターもしていた平田さんに聞くというもの。

その中で「対話」と「会話」の違いについて述べた上で、なぜ日本に対話が根付かなかったのかを次のように書いている。

「近代化以前の日本は、極端に人口流動性の低い社会でした。狭く閉じたムラ社会では、知り合い同士でいかにうまくやっていくかだけを考えればいいから、同化を促す『会話』のための言葉が発達し、違いを見つけてすり合わせる『対話』の言葉は生まれてきませんでした」

「近代日本語は、フランス語や英語が150年から200年かけて行った言語の近代化、国語の統一という難事業を40~50年でやってしまった。すごいことです。ただ当然、積み残しや取りこぼしがでてくる。日本だけではありません。ドイツ、イタリアも日本とほぼ同じ頃、地方政府を統一し、近代化を急ぎます。そうすると、対話は余計なんですよ。面倒くさいから。僕は、それが、ドイツ、イタリアのファシズムや、日本の超国家主義の台頭を許したと思っています。対話は民主主義の大前提です」

平田さんは、野田総理の「言葉」から、政治と言葉について語っているが、ちょうど雑誌『世界』7月号では、大阪の橋下市長の特集が組まれていて、その中で映像作家の想田和弘さんが、橋下市長の言葉と政治との関連について語っている。

「橋下氏は、人々の『感情を統治』するためにこそ、言葉を発しているのではないか、そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、『感情を統治』されているのではないか」

さらに、橋下氏がツイッターで「民主主義は感情統治」とコメントしていたのを受けて、想田氏は、次のように語っている。

「僕はこのつぶやきにこそ、橋下氏が考える政治のイメージが集約されているように思えます。つまり彼は、『民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度なのだが、そのコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだ』と言っているのです」

実に興味深い指摘だと思う。ふつう政治家というのは、論理や科学的正しさを言葉でもって説明し、時間をかけて、市民とコンセンサスをとっていく。コンセンサスをとる過程において、大きな役割を果たすのが、対話であるはず。しかし、橋下氏は違う。対話より、「感情の統治」を重要と考えている。彼にとってのコンセンサスとは、感情的な言葉を投げ、その「感情の一致」のみによって得るものなのである。その結果、時間が省くことができて、スピードある政治が出来るというわけ。

以前読んだ『リスクに背を向ける日本人』という本の中で対談していたハーバード大学社会部長でライシャワー日本研究所教授の、メアリー・L・ブリントンさんも、日本人一般についてだが、こんなことを話していた。

「コミュニケーションが大切だと日本人はよく言いますが、日本人のいうコミュニケーションとは、『感情』に重きを置きすぎているんじゃないでしょうか。いわゆる『心を通わせる』ことがコミュニケーションなんだと」

「しかし、もう一つ必要なのは、『自分の意図や能力を相手にちゃんと伝えるためのコミュニケーション『スキル』です。アメリカ人は子どもの頃から、言葉を使って自分の『意図』を伝える訓練を受けています」

平田オリザさんが指摘するように、日本、ドイツ、イタリアが、近代化を急ぐ中、「対話」を面倒なもの、余計なものとしていたのと同様、橋下氏は、対話によるコンセンサスより、感情の一致によるコンセンサスの方を優先させているということになる。さらに日本人全般に当てはまることでもあるようだ。

政治家が「対話」によるコンセンサスを軽視する風潮、そんな時代にわれわれはどうすればいいのか。平田オリザ氏と、想田和弘氏の両者の考えをひいておきたい。

まずは、平田氏は次のように言う。

「日本は今、成長社会から成熟社会に移行し、富ではなく、負の分かち合いの時代に入りました。国会の体力が緩やかに衰退していく中、何を大事にして、何を諦めるのか。価値観をすり合わせながら、今後の方向性について国民的な合意を形成していかなければなりません。対話が切実に求められています」

そして想田氏は次のように言う。

「まず手始めに、紋切り型ではない、豊かでみずみずしい、新たな言葉を紡いでいかなくてはなりません。守るべき諸価値を、先人の言葉に頼らず、われわれの言葉で編み直していくのです。それは必然的に、『人権』や『民主主義』といった、この国ではしばらく当然視されてきた価値そのものの価値を問い直し、再定義する仕事にもなるでしょう」

それでも我々がすべきことは、対話を繰り返すことによって、新しい言葉をつくり、新しい価値観をつくってコンセンサスをとっていく。それしかないということなのだろう。

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