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2012年8月28日 (火)

「その元気を生むのは、『数字や結果にとらわれてないところ』だと僕は思う」

子供の夏休みが終わった。色んなイベントに付き合っていたら、あっという間に夏休みが終わった感じ。しばらくご無沙汰してしまった文章もどんどん書いていきたいと思う。

うちの子供は、今年から地元の少年野球に参加している。毎週末、練習や試合に臨んでいる。特別うまいわけではないが、仲間との野球を楽しんでいるようだ。

度々、その試合を見学していて、気付いていたことがある。そのひとつが、コーチや親といった大人たちによる、子供たちへの不思議な態度のことである。ベンチにいるコーチや親は、ゲーム中の選手たちに色んな指示や指摘をする。まあ、そうだろう。でも、その内容があまりに「マイナス」な指示ばかりで正直、驚いてしまったのである。「何でそんなボールを打つんだ!」「リードが足りない!」「もっと飛び込め!」など、子供ができないことを立て続けに大きな声で指摘していく。時には怒気を含んだような声で。選手たちを励まし前向きな気持ちにさせたり、リラックスさせたりするような意図はあまり感じられない。とにかくできなかったこと、失敗したことを指摘し続けるのである。何かあるとベンチをおびえた目で見ている選手が何人もいた。少なくとも、その瞬間は野球をやっていて楽しそうではない。

ボク自身は、子供の頃の公園での野球と社会人になってからの草野球くらいしか野球経験はない。ちゃんとした野球の世界では、「マイナスの指示」は昔からの常識なのかもしれない。でも練習中ならいざ知らず、試合中に子供を萎縮させてしまっては逆効果なのでは。

実はボクが先日、参加させられた少年野球の審判の講習会でも、そうだった。こっちは初体験で素人。ルールや用語を覚えるのだけで必死なボクのような者に対して、「教師役」の先輩審判たちは、出来ていないことについての指摘を次々と容赦なく投げかけてくる。

「できたことを褒めるより、できないことをとにかく叱る」。これが、子供たちの試合、審判の講習会と両方に共通することだと思った。ボクが子供なら、野球を続けたくなくなるかもしれない。正直、そうも思った。

そんなことを考えていたら、競技は違うけど、『サッカー批評』(57号)に似たような指摘をする文章があったのを思い出した。それは、サッカーライターの鈴木康浩さんが書いた『子供がサッカーを嫌いになる日』という記事。その中には、こんな言葉が紹介されていた。

「昔からベンチで怒鳴って子供をロボットのように扱う指導者はいました」

「子供は何が正しいのかが分からなくて、まったく理解ができずに大人の顔色を気にしてプレーしている。楽しいわけがない

そうやって、サッカーを楽しめなくなった子供たちが多いという。

「子どもたちにはふざけさせてあげる」

「練習する上では非効率なんだけど、普段の状況を考えれば、この子供たちの成長を考えれば、そういう会話も必要」

子供が成長したり、次のステージに上がっていくためには、非効率であっても「ふざけること」も必要という。

スポーツをやる意義には、「勝負の結果」以外にもいろんな要素がある。楽しむこと。上手になっていくこと。仲間との交流などなど。

もちろん「勝つこと」も大事だが、それだけでは悲しい。なのに、周りの大人たちは「勝負の結果」ばかりを求めがちになる。子供が、その世界で伸びていくためには、時には「ふざけること」だって必要なのだ。

スポーツとは別の世界だけど、この記事を読んでいてつながった文章があったので紹介したい。東京・自由が丘で「ミシマ社」という出版社をやっている三嶋邦弘さん。その著書『計画と無計画のあいだ』で、こんなことを書いていた。

「会社をやっていれば、いいときもあれば悪いときも当然のごとくある。その悪くなったとき、全員がドヨーンとした顔で『ああ、ああぁ・・・』と地の底から響いてくるようなため息をついていては、チームの士気は下がる一方であろう。そんなときこそ、『元気』が必要とされる。元気は元気なときよりも、元気じゃないとき、真に必要なものなのだ。そして、その元気を生むのは、『数字や結果にとらわれてないところ』だと僕は思う。いってみれば、『遊び』の部分だ」(P120)

そのまま、少年野球やサッカーにも通じるコメントだと思う。スポーツの世界も、どんなに練習して努力しても結果が良いときも悪いときもある。失敗した時こそ、「元気」になる指示やコメントが必要なのだ。それなのに「マイナスの言葉」ばかり履いていては、チームの士気は下がる一方であろう。

「ふざけること」や「遊び」の部分がないと、我々は成長できないということ。これは、更に飛躍すれば社会そのものにも通じることのようだ。こんな文章もあった。日本在住の政治学者C.ダグラス・ラミスによる『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』には、こんな文章が載っていた。

「アリストテレスが書いていたことですが、民主主義の必要条件は社会に余暇、自由時間があるということです。余暇がなければ、民主主義は成り立たないと。人が集まって議論したり、話し合ったり、政治に参加するには時間が掛かる。そういう暇がなければ政治はできないのです。政治以外にも人は余暇で文化を作ったり、芸術を作ったり、哲学をしたりする、とアリストテレスは言いました。けれども政治的に言うと、そういう勤務時間以外の時間があって初めて、人が集まり、自由な公の領域を作ることができる、そういう考え方だった」(P188)

社会のなかで民主主義を進めていくためにも、「余暇」や「自由時間」が必要なのである。

全く同じことを、活動家の湯浅誠さんも『ヒーローを待っていても世界は変わらない』で指摘していて興味深い。

「私は最近、こう考えるようになりました。民主主義とは、高尚な理念の問題というよりはむしろ物質的な問題であり、その深まり具合は、時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、というきわめて即物的なことに比例するのではないか」

「私たちの社会が抱えている問題はそれぞれ複雑で、一つひとつちゃんと考えようとすれば、ものすごく時間がかかります。一番簡単なのは、レッテルを貼ってしまうことです。一度レッテルを貼ってしまえば、それ以上考える必要がない」(P85)

少年野球の話から、ついつい飛躍してしまったが、スポーツだろうと、ビジネスだろうと、民主主義だろうと、「遊び」が必要ということなのだ。「遊び」や「自由な時間」によって、ストックを増やしたり、自分の本来の立ち位置を確認したりする。そうしたいと社会の中の市民の目が死んでしまうのではないか。日本社会の閉塞感は、このあたりに起因しているのではないか。

少年野球に話を戻せば、湯浅さんが指摘するように野球の世界だって複雑な世界であるはず。マイナスなことだけに目を向け、レッテルを貼るのではなく、それぞれの大人が考えて、選手たちが「自立」していくことを支えることが大事なのではないだろうか。

 

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