「同じ考えを持つものしか『国民』になれない国は『ロボットの国』だけだ」
きょうの朝日新聞(8/30)の朝刊に『論壇時事』というコーナーがあり、作家の高橋源一郎さんが『新しいデモ 変える楽しみ社会は変わる』と題する文章を書いていて非常に興味深い。
先日、テレビ朝日『報道ステーション』に出演した際のコメントに対して、あとから罵倒と否定の言葉をたくさんもらったことを受け、こう書いてあるのが印象的だった。
「国家と国民は同じ声を持つ必要はない。そんな義務もない。誰でも『国民』である前に『人間』なのだ。そして『人間』はみんな違う考えを持っている。同じ考えを持つものしか『国民』になれない国は『ロボットの国』(ロボットに失礼だが)だけだ―というのが、ぼくにとっての『ふつう』の感覚だ」
ここでも「ロボット」という言葉が出てきたので、思わずメモしてしまった。
おととい、このブログ(8/28)に「選手をロボットのように扱う指導者が多い」というジュニアサッカー指導者の言葉を紹介したばかり。その結果、子供たちの「目は死んでしまい」、まさに「ロボット」のようになる。その時、最後に6/24のブログで紹介したドキュメンタリー監督の松林要樹さんの言葉と重なっていて怖い、というふうに書いた。
今回は、「ロボットつながり」ということで、その時に紹介した松林さんが『3・11を撮る』という本の中で書いていた文章をもう再度、紹介したい。
「大風呂敷を広げれば、戦後日本人が追い求めた価値観は、経済の豊かさを求めて、人間性を排除し、出来る限り、上意下達の組織や、ロボットのように社会に忠実な人間を生み出すことに集約されたのではないか。この震災をきっかけに戦後の日本は何を基軸に豊かさを求めたのかを問い直したい」(P101)
高橋さんと松林さんの言葉を受けるなら、これまで我々は、経済の豊かさを求めた結果、人間性を排して、「ロボットの国」のような世界を生きてきたのであろう。そうであるなら、これからは、みんなが違う考え方をもって生きることのできる、もっと言えば子供たちがそれぞれの価値観を持って野球のできる、そんな「人間の国」に少しでも近づいていくことを祈るし、自分も何とか力を尽くしたい。そう思うのだが。
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