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2013年1月12日 (土)

「一回どこかで関係ないよって離れないといけないのかなと思っています」

大阪市立高校の17歳のバスケットボール部主将が自殺した問題について新聞やネットの記事を読み込んでいる。今朝の朝日新聞(1月12日)に載っていた元プロ野球選手の桑田真澄さんのインタビューが、やはり心に残った。

私は、体罰は必要ないと考えています。『絶対に仕返しをされない』という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべき卑怯な行為です」

「指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法」 

この「暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとする」という指摘は、前回のブログ(1月11日)に書いた「政治家の方々は、すべてをコントロールできると考えているのではないか」ということに通じているように思える。 

少し話は飛ぶが、その政治家である大阪市のトップ、橋下徹市長は、知事時代(2008年10月26日)には、口で言って聞かないと手を出さないとしょうがない」と発言するなど、かつて体罰を容認している。 

その橋下氏は、今回の事件では、市長としては、「こんな重大問題を教育委員に任せておけない」「市教委がどれだけ神経質になって調査したのかをしっかり調べていく」と発言して、市教育委員会の対応を厳しく批判している。いまのところ体罰そのものを否定するのではなく、あくまでも市教育委員会という仕組みの問題という考え方のようである。「仕組みが悪い」と言って、彼が何でも仕組み・システムのせいにしがちなことについては、以前のブログ(2012年6月7日)に書いたことがある。 

と、書いたところで、ラジオのニュースを聴いていたら、今日、橋下市長は、これまでの「体罰容認」について、「認識が甘かった。反省している」「教育専門家らの意見を聞き、スポーツ指導で手を上げるのは前近代的で全く意味がないと思った」と語ったとのこと。正直、「今更」と思わなくもない。少なくとも、容認してきたこの4年間、今回の事件を含め、体罰をめぐる不幸な事件はいくつか起きているはず。それについての自らの責任については、ちゃんとコトバにして欲しいと思う。 

話は、戻る。最初に書いた桑田真澄さんは、以前にも朝日新聞(2010年7月24日) で、体罰についてインタビューに答えている。 その時は、次のフレーズが印象に残った。 

「理不尽な体罰を繰り返す指導者や先輩がいるチームだったら、他のチームに移ることも考えて下さい。我慢することよりも、自分の身体と精神を守ることの方が大切です」

今回自殺した17歳の少年も、親に「部員の信頼を失うので『キャプテンを辞めたい』とは言えない」と言っていたように、主将を辞められなかったり、チームを移れない様々な理由があったに違いない。高校生なりに、人間関係や立場、親に心配かけたくないなど色んな事情を抱えている。でも自殺という「死」を選ぶくらいなら、そういう選択肢もあるのに、とは思くはない。なぜ、最悪の選択肢を選びとってしまうのか。

ランニングコストというのは、お金のことだけでない。人間関係とか色んな事情を、生きるための「コスト」として抱え込み、それによって自分の選択肢を狭めてしまう。それは、年末のブログ(2012年12月25日)で触れたサラリーマンの姿にも重なる。 

上記の桑田さんの他のチームに移ることも考えて下さい」というフレーズを読んだとき、思い出したコトバがいくつかある。まずは、自殺対策支援センター「ライフリンク」代表の清水康之さんが、毎日新聞(2012年9月6日)で「いじめ」について語っていたコトバである。 

「いじめを受けている子は、仕組みから出てしまえば、いじめは成立しないと知ってほしい。まず退避して、どう生きるかは後で考えてもいい。教室も日本もちっぽけなものだ」

正確には「いじめ」と「体罰」が違うのかもしれない。しかし今、自分が身を置く「仕組み」の外に出てみると、新しい世界が見えてくるというのも、ひとつの真理なのかも。 

同じような文脈で、建築家の坂口恭平さんは、朝日新聞(2013年1月10日)で次のように語っている。 

「社会を変えるためには1回はずれなきゃいけないんですよ。でもみんな円がないと怖いという妄想にとらわれすぎている」

ちなみに、ここに出ていくる「円」とは、お金のこと。お金や今の立場を失うことを恐れるのではなく、思い切って外に出てみることで環境を変え、そして身軽になって、社会を変える。ライフスタイルの「断捨離」である。

さらに作家の高橋源一郎さんは、雑誌『文学界』(2012年3月号)に、こんなコトバを残している。 

「結局のところ僕たちが生きている世界の中で何かがうまく回っていないのは、思うに1回他人として遠ざけたうえで選びとることをしていないからじゃないか。考えてみると、そこに行きあたる気がするんですね。 

 だからこれからは特に、どうやって何を選びとるのかが大きな課題になってくると思いますが、そのためには一回どこかで関係ないよって離れないといけないのかなと思っています」

大阪の体罰問題の記事を読んでいて、桑田さんのインタビューから連想して思い出したコトバをざっと並べてみた。桑田真澄さん、清水康之さん、坂口恭平さん、高橋源一郎さんのコメントは、どこかつながっているというか、同じことを言っているように思える。 

体罰、いじめ、閉塞感、変わらぬ社会…。そうした今、目の前に存在する問題は、きっと同根なんだと思う。「仕組みが悪い」と言って、その場にとどまる。何とかなる、と我慢を続けた結果、気がつくと「死」という最悪の選択肢を選ばざるを得ない状況に追い込まれている。だったら、その前に思い切って、その仕組み・システムから飛び出してみる。外に出て、離れてみれば、背負っていた複雑なランニングコスト(重荷)から自由になれるかもしれない。そして、そのシンプルな身軽な状態で、改めて自分の道を選びとってみれば、少なくとも最悪の選択肢を選ぶことは避けられる。そんな感じではないだろうか。

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