「現代社会は『結果がすべて』という考え方に支配されてしまっている。そんな社会的風潮も人が緊張する度合を深めているような気がする」
相変わらず、大阪の桜宮高校から端を発した今回の体罰問題に関する周囲の人たちの言説を追っている。1月12日のブログで、元プロ野球選手の桑田真澄さんが朝日新聞のインタビューに答えていたコメントを紹介したが、今度は昨日の読売新聞(1月27日)の『体罰考』というコーナーに、彼のインタビューが掲載されていた。彼は、こう語っている。
「体罰を生む背景は勝利至上主義であると思います。アマチュアスポーツでは本来誰もが、子供を育てる、選手を育てるという“育成”を目的にしているのにもかかわらず、目の前の試合に勝つために、指導者は手段を選ばなくなってしまうのです」
勝利至上主義。確かに、このフレーズも、いろんな文章でよく見かける。また「結果がすべての世界だから」とか、「スポーツは結果がすべて」というような言い回しも、よく目にする。
ボクは、この「結果がすべて」という言い回しが、よく分からない。スポーツの世界だから当然、結果は大事である。もちろん大きな要素である。それは大前提として抑えておく。でも、である。「結果がすべて」ということは、それ以外は「ゼロ」。そんなことはあるわけはない。ちょっと考えてみることもなく、間違っている、はずである。なのに「結果がすべて」というような安易なフレーズがこれだけ流通しているのだろうか。
そんなことツラツラ考えていたら、この週末に読んだ権藤博さんの『教えない教え』という本に、その「結果がすべて」に触れていた部分があった。権藤さんは、元ベイスターズの監督で、去年はドラゴンズの投手コーチを務めた。
「現代社会は『結果がすべて』という考え方に支配されてしまっている。そんな社会的風潮も人が緊張する度合を深めているような気がする。
『失敗は許されない』。そんな考えに囚われてしまったら緊張するのは当たり前だ。思考も体も柔軟性を欠いた状態では、普段の実力の半分も発揮できないに決まっている」 (P78)
「高校野球にしてもリトル・リーグにしても“勝つ”ことだけを唯一の目標にしてしまって“戦うの楽しさ”というものを教えていない。指導者のほとんどが『勝ちたいんだったら俺の言う通りにしろ。勝つためにはこれをやっておけばいい』という一方的な教え方になってしまっている。
これではスポーツの“楽しさ”や“面白さ”は子供たちに決して伝わらない」 (P124)
緊張する度合を深め、コーチなどの目を気にしながら、伸びるべき者ものびないし、楽しべきものも楽しめない。「あったりまえだ~」とでも言いたくなる。
こちらも、たまたまだが、録音でTBSラジオ『伊集院光の週末ツタヤに行ってこれ借りよう』(1月4日放送)という番組を聴いていたら、タレントのテリー伊東さんが、次のセリフをつぶやいていた。
「俺たち結果勝負なんですよね。俺たち自分で決められない。結果、数字じゃないですか」
テリーさんが言いたいのは、「テレビは結果がすべて。視聴率という数字がすべて」ということだと思う。インタビュアーの伊集院さんも、この部分には「そうですよね」と当然のように受けていた。テレビの世界については、ボクも知らない世界ではない。おそらくスポーツの世界以上に「結果がすべて」という考え方が強固なのではないか。
なぜなのだろうか。色んな要素はあると思うが、ひとつは「結果がすべて」「数字がすべて」と堂々と口にする人は、おそらく結果を出した人なんだと思う。メディアでテレビのことを話している人なんてのも、結果を出した人、成功した人がほとんどなのである。また彼らが「結果がすべて」と言い切った場合、なかなかそれ以外の人が「そうではない」とは言いにくくなる。結果、大きな声やたくさん声を出した人の考え方が、いつの間にか「正しい」として流通している部分もあると思う。
テレビの世界だって、もちろん結果は重要。だけど、それがすべてではないはずである。結果は出なかったものにも当然ながら素晴らしい番組はあるはずだし、チャレンジの部分で価値ある番組も多いはずである。少なくとも、そうした番組にも語るべき要素はたくさんあるはず。だけど「結果がすべて」「視聴率がすべて」という一言で、それらを切り捨ててしまう。思考停止。だからテレビの世界にまっとうな「テレビ批評」というものが確立されないのではないか。
権藤さんが指摘するように、スポーツだけでなく、政治、企業といった社会全般を「結果がすべて」という考え方が支配している背景には、テレビの影響が大きいのではと思う。少し短絡的な考え方かもしれない、というのは重々、承知の上だけど。
スポーツの世界に話を戻したい。では、スポーツの世界が「結果がすべて」「勝利至上主義」から脱却するのは可能なのか。
毎日新聞(1月27日)の『スポーツと体罰』という特集企画で、東京女子体育大教授の阿江美恵子さんは、次のように語っている。
「周囲の目も大切だ。指導者は試合結果で評価される部分が大きいと思う。しかし成績だけではなく、そこに至る過程を評価する目をもたなくては、スポーツ界から体罰を一掃できないと考えている」
結果や成績だけでなく過程を評価する目。これこそ、まさにテレビ界が育てられていない「批評」という部分ではなかろうか。
そんな中、ノンフィクションライターの高橋秀実さんが書いた著書『弱くても勝てます』という本の中に興味深い話がたくさん紹介されていた。この本は、超進学校で知られる開成高校の野球部を取材して書いた本である。
開成高校の野球部は、週1回の練習ながら、画期的かつ効果的な練習方法や取り組み方で野球に取り組む。その中で自らの体や頭の中を研鑽し、高める。東東京大会でベスト16という結果も出す。読んでいて感じたのは、なにもよりも創意工夫や理屈を考えることが楽しそうなことである。
その開成高校野球部の青木監督は、野球について次のように語る。
「『野球はやってもやらなくてもいいこと。はっきり言えばムダなんです』
『とかく今の学校教育はムダをさせないで、役に立つことだけをやらせようとする。野球も役に立つということにしたいんですね。でも果たして何が子供たちの役に立つか立たないのかなんて我々にもわからないじゃないですか。社会人になればムダなことなんてできません。今こそムダなことがいっぱいできる時期なんです』」 (P87)
さらに青木監督は、野球というゲームについても「じゃんけんと同じです」としたうえで、次のようにも語る。
「『勝ったからエラいわけじゃないし、負けたからダメじゃない。だからこそ思い切り勝負ができる。とにかく勝ちに行こうぜ!と。負けたら負けたでしょうがないんです。もともとムダなんですから。じゃんけんに教育的意義があるなら、勝ちにこだわることなんか下品とかいわれたりするんですが、ゲームだと割り切ればこだわっても罪はないと思いますよ」 (P87)
「思い切り勝負ができる」。これが大事だと。権藤さんが指摘した「思考も体も柔軟性を欠いた状態」とは、間逆の状態の選手たちがここにはいた。
しかしながら「ムダ」とは言いすぎではないか。でも世界は違うが、平田オリザさんさんは著書『芸術立国論』で、次のように書いている。
「芸術家は、基本的にはいつも“ブラブラしている”ように見え、経済生活の表層にとっては無駄な存在だろう。しかし、それは同時に、共同体にとって、どうしても必要不可欠な存在なのだ。無駄のない社会は病んだ社会である。すなわち、芸術家のいない社会は病んだ社会だ」 (P43)
スポーツ選手だって、ある意味、芸術家なのである。きっと当たり前とされる社会の常識や考え方を変えるためには、芸術やスポーツ、アートなどが大事なのではないか。それを通して「批評する目」を育てる。そのためにも「無駄な存在」が必要なのである。
その一方で、本来はクリエイティブを駆使して、「結果がすべて」という風潮を打破すべき立場にあるテレビというメディアが、反対にそれを助長する立場にいることは思っている以上に罪が大きいのかもしれない。
とはいえ開成高校野球部員たちも、この後は東大をはじめとした有名大学に入るだろう。もしかしたら、東大野球部で桑田真澄コーチに教わっている選手もいるのかもしれない。そのあとは官僚や大企業に勤める人もいるのだろう。こんな野球を経験した彼らが、社会でどんな立ち位置を取るのか、そっちにも興味がある。
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