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2013年2月13日 (水)

「究極の目的は、自由の獲得だと思っています」

体罰にまつわる言葉が続く。

今週月曜日の毎日新聞(2月11日)に掲載された『告発の真相』という特集記事の中で、柔道の山口香さんは、次のように語っていた。 

「欧州ではスポーツで何を学んでいるかといえば、自律です。やらされるとか、指導者が見ている、見ていないとかではなく、ルールは自分の中にあります。ゴルフがいい例で、スコアはセルフジャッジ。ラグビーやテニスも近くに監督はいません。自律と自立を併せ持つ人づくりにスポーツが有用とされており、それこそ成熟したスポーツと言えます」 

内田樹さんの著書『荒天の武学』を読んでいたら、次の言葉が書いてあった。上記の山口さんが指摘する「欧州の価値観」とまさに正反対である。この本の編集は、大阪の桜ノ宮高校の体罰問題の前である。 

「今の日本人が失った最たるものは、その自己規律ですね。外的な規律は、違反すると処罰されるから、恐怖ゆえに違反しない。でも、処罰への恐怖だけで規律を守っている人は、規律が利かない場面、処罰の恐れがない場面では、いきなり利己心や暴力性を噴き出してくる。これは本当にそうですね。外的規律の厳しい集団で育てられた人ほど、無秩序状態のときにでたらめな振る舞いを始める。自己規律が内面化された人は、外的な規律や処罰の有無とは無関係に、自分で決めたルールに従って行動する」 (P234)

インターネットの放送局「ビデオニュース・ドットコム」でも、『体罰は愛のムチか』(2月9日放送)と題して、社会学者の
宮台真司さんんと精神科医の斎藤環さんが対談をしている。その中の、次の会話も重なってくる。 

(宮台) 「日本の場合、共同体の暴力は必ず内に向いて、外に対しては逆にとても従順なんですよ」

(斎藤) 「体育会系の人の謙虚さは、対外的には『みなさんのおかげで』というように謙るじゃないですか。で内向きには、俺が殴ったおかげで勝てたんだというようなことを平気で言うじゃないですか。これはまさに表裏一体の問題なんだなと思う」


常に外的規律で動き、自己規律(自律)が育たない世界。これは、内田さんが説くように、部活やスポーツだけの話ではないのだろう。暴力ではないが、会社などで行われる「コンプライアンス重視」という傾向も外部規律重視ということでは同じなのではないか。また「ルールがなければ、何をやってもいい」ということでは、ホリエモンのライブドア騒動などを思い出したりもする。

出前でサッカーコーチを行っているという池上正さんは、朝日新聞(2月1日)のインタビューで、次のように語っている。

「ああしろ、こうしろと指示してばかり。従わないのは『ダメなやつ』と烙印を押す世界では、いい選手は育ちませんよ」 

さらに池上さんは「スポーツの魅力とは?」という質問に対して、次のように答えている。


「究極の目的は、自由の獲得だと思っています。最初はみんなが自由になると、たとえば私が左に動いたときに他にも左に動く人がいて、重なって不自由になります。でも、そういう不自由な経験をいっぱいすると、仲間が左に動きた瞬間に自分は右に動くことが自然にできるようになる。お互いに認め合う関係ができるわけです。本当に自由にやって勝てるほど楽しいことはない。そのためにはコーチも選手を自由にしてあげないといけません」


「自由」とは「自己規律(自律)」とセットなのかもしれない。この池上さんの「究極の目的は、自由の獲得だと思っています」というセリフは、県立浦和商業の教員、平野和弘さんの「自由を獲得するために教育はある」(2011年10月12日のブログ)というフレーズとそのまま重なる。

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