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2013年2月 1日 (金)

「でも私たちが意外と簡単にできるのは、人の言うことを聞かないということです」

体罰問題が広がっている。この問題について、ちゃんとした考え方を持っている人の意見を読んだりすると安心する。案外というか、当然というか、社会の中にはちゃんとした考えを持った人は多いのに、世の大勢が「体罰黙認」となってしまうのは、どうしてだろうか。そんな「社会の体質」は、どうやったら変えていけるのか。先の選挙で、反原発という考えの方が過半数を超えていたにも関わらず、唯一原発容認だった自民党が圧勝したという悲しい結果をも思い出す。どうすれば、我々は「社会の体質」を変えていけるのだろうか。ぶつぶつ…。

野球の松井秀喜選手のコメントをきっかけに、「コントロールできること」と「コントロールできないこと」について考えたりした。(1月10日のブログ)。それからも、「コントロール」「制御」「支配」など言葉には、とても敏感になって拾い集めている。 

体罰に関しては、コラムニストの小田嶋隆さんが、『日経ビジネスオンライン』で連載している 『小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句(1月18日)』で次のように語っていた。

「体罰は、単なる物理的な暴力ではない。より本質的には、威圧と罰則で人間をコントロールしようとする思想の顕現として、子供たちの前に現れるものだ」
 

さらに小田嶋さんは、体罰問題が起きた大阪の桜宮高校に対する橋下市長の手法にも、同じ問題を見てとる。TBSラジオ『たまむすび』(1月16日放送)から。

「大阪市の橋本市長が今回の件について無期限活動停止と、来季の入試を差し止めみたいなことを要請するというようなことを言っている。これは方向としては体罰と一緒で、一罰百戒じゃないですけど、何か間違いがあった時や失敗があった時に、ちょっと大きめの罰を与えることで現場をコントロールしようとするということは発想としては体罰と一緒だと思う。だから自分は体罰を容認してきたけど間違っていたなんて言って、ちょっとシオらしいことを言ってましたけど、発想の根本ではアメとムチで人をコントロールしようとか、支配と服従、あるいは圧迫と制圧みたいな関係で人間関係をみているという点では変わっていないんじゃないかと思う」


元ベイスターズ監督の権藤博さんがが著書『教えない教え』で、子供たちを安易にコントロールしようとする指導者たちに厳しい言葉を投げかけている。

「高校野球にしてもリトル・リーグにしても“勝つ”ことだけを唯一の目標にしてしまって“戦うの楽しさ”というものを教えていない。指導者のほとんどが『勝ちたいんだったら俺の言う通りにしろ。勝つためにはこれをやっておけばいい』という一方的な教え方になってしまっている。 これではスポーツの“楽しさ”や“面白さ”は子供たちに決して伝わらない。できない子はなぜできないのか一緒に考え、分かるまで何度も教えてやる、とことん付き合う。そういったことのできる指導者は残念ながら少数派なのである」 (P124)


今度の話は体罰問題とはまったく関係ない。サッカーのJリーグに、名古屋グランパスというチームがある。3シーズン前に優勝、翌シーズンは準優勝という結果を残した後の昨シーズンは、7位と惨敗した。その惨敗という結果について、チームキャプテンの楢崎正剛選手は、雑誌『GRUN』(1月号)で次のように語っていた。

「もっと自分たちで支配したり、もっとうまくコントロールできるんじゃないかとか。結局そういうものを追い求めすぎて、自滅していました」 

毎年のように優勝争いを経験し、チームや選手たちに自信もつく。いつのまにか、ゲームを自分たちで完璧に支配・コントロールできるのではと思い込む。その結果、何かを失い、何かができなくなり、やがて隘路に入って自滅していく。ある意味、かつて右肩上がりを続けてきた日本で、その後、起きている社会現象を象徴している言葉のように思える。 

全てをコントロールしようとする考え方。それはどこから来ているのか。生物学者の福岡伸一さんは、著書『せいめいのはなし』でこんなふうに話している。 

メカニズムさえコントロールできれば、世界のすべてがコントロールできるという錯覚の果てに今の文明の問題があるのだと思います。でも、それはまったく違う。文明というのは、人間が自分の外部に作り出した秩序で、機械的な世界観です。人間を豊かにし、便利にし、雇用やお金を生み出すものだったはずなんですが、自然はそんなものではない」 (P98) 

解剖学者の養老孟司さんは、著書『庭は手入れをするもんだ』で、次のように語っている。 

「自然の中で暮らしていれば、『ああすればこうなる』はないのです。地震も台風も防ぎようがない。都会人は人間が意識的につくり出したもの以外はどんどん遠ざけ、自然に苦手意識をもつようになり、その結果、死をも見ないようになったのだと思います」 (P55

養老さんが昔から指摘する「ああすればこうなる」という風潮こそ、まさに福岡さんの言う「すべてをコントロールできる錯覚」のことである。そうやって気づきあげたのが都会である。養老さんは、そのためには、都会から離れ、「花鳥風月」に囲まれた自然の中で過ごす時間を持つことを勧めている。

将棋の羽生善治氏は、自分の思い通りにいかない状況、コントールできない状況こそ理想だと話す。著書『直観力』から。 

「自分が想定した、その通りでは面白くない。自分自身思う通りにならないのが理想だ。
  計画通りだとか、自分の構想通りだとか、ビジョン通りだとかいうことよりも、それを変えた意外性だとか偶然性、アクシデント、そういうあれこれの混濁したものを、併せ呑みながらてくてくと歩んでいくのが一番いいかたちなのではないかと思っている。
 
変っていく、変化し続ける自分を納得しながら楽しむ」 (P208)
 

まったくもって大人だ。以前のブログ(2012年3月8日)で、「たくみにゆらぐ」ことのできる人こそ、「成熟した大人だ」という言葉を紹介したことがある。羽生さんの「変わっていく、変化し続ける自分を納得しながら楽しむ」というのは、まさにそれである。 

我々が、羽生さんのように「変わっていく、変化し続ける自分を納得しながら楽しむ」ように過ごしたとしても、なかなか全てをコントロールしたがる都会の「社会の体質」は変わらないのだろう。というか、その傾向はますます強まったりしている。では、我々はそんな社会に対しては、どうすればいいのか。 

「素人の乱」で知られる松本哉さんは、雑誌『世界』(2012年7月号)で次のように話している。 

「勝手なことをする人が少なすぎますよね。いま世の中はどんどん窮屈になっていますが、従順になりすぎて自分で首を絞めているところもあると思います」 

「異質なものを統制しようとすることが社会の末端まで行き届く前に、こっちがどれだけ勝手なことのできるコミュニティをつくれるかが重要だと思います」

そこで松本さんは、「勝手なことをできるコミュニティ」として、高円寺を地盤にして、リサイクルショップやデモを展開する。ちなみに、同じ対談の中で語っていた次のフレーズも非常に興味深いので紹介したい。 

「法律や政治にコミットしていくのはハードルの高いことで、選挙で悪人以外に投票するくらいしか、普通はできません。でも私たちが意外と簡単にできるのは、人の言うことを聞かないということです。強力な指導者の言うこと、軍国主義でもファシズムでも、どれだけ言うことを聞かないか。言われたことを右から左に流して、ケロッとしていられる状況をどれだけつくっていけるか」

この
松本さんの「人の言うことを聞かないこと」という言葉。これは案外、芯を食っている気がするのだが。どうだろうか。

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