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2013年3月13日 (水)

「わたしは『だめだと言われたからだめなんだ』と思う子どもを育ててはいけないと思っているんです」

ここ数回のブログでは、日本という社会の、一度決めたルールに拘泥してしまう体質や、外部規律に依存してしまう体質についてのツラツラ考えながら言葉を並べてきた。

どうしたら、こんな体質を変えられるのだろうか。正直、ちょっとお手上げな感じもあるけど、とどのつまりは、教育から変えていくしかないんじゃないかなと思ったりもする。教育現場で「ルールは社会の変化にあわせて変えていかなければならない」とか、「外部規律より、自己規律で考える」というようなことを子供たちの体質にしみこませていく。それしかないんじゃないのかな~と。

そんなことも考えながら、たまたまフィンランドの元外交官で、現在は教材作家として教科書作成などに携わる北川達夫さんと、劇作家の平田オリザさんによる共著
『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』という本を読んでいた。この本の中にも、やはり子供たちに対しても、外から規律を押し付けてしまうような教育現場の状況が指摘されていた。北川達夫さんは、次のように語っている。

「フィンランドから日本に帰ってきて、日本の教育現場に入ってみてびっくりしたものの一つに、読書指導があります。それは、先生たちが選んだ本を子どもたちに『いい本として』読ませているということです。先生たちが一生懸命、いままでの知識と経験を駆使していい本を選ぶ、社会的評価が高い本を選ぶ、それはもちろんいいです。でも、私たちは、『それを読んで、いいか悪いか、好きか嫌いかを決めるのは子どもたちだ』という教育哲学が徹底している国にいたものですから、いい本だという、教師側の価値観、評価をいっしょに子どもたちに与えていることにものすごく驚かされました」 (P22)

そして、北川さんは、次のようにも指摘する。

「そこに、規範意識といいますか、教える側の『教室での表現というものはこうあるべきである』『子どもは元気で、はつらつとした存在であるべきである』という、表現観、価値観が強く入り込んでいるのかもしれないですね」 (P122)

さらにフィンランドの教育を引き合いに、日本の教育の問題点を次のように語っている

「ご推察の通り、あれにはあらかじめ決められた答えはないんです。話し合っているなかで、『ここまで言われたら自分だったら許せない』『この程度ならば許せる』というラインを子どもたちがそれぞれ決めていくんですね。
 そういう葛藤のある、いま平田さんが言われた『うそを言うことと、おおげさに言うこと』や、同じく国語教科書のなかに出てくる、『いじめられることと、からかうこと』など、境界線の引き方が個人や社会によって大きく異なってくるような問題が意図的に立てられているんです。それは、話し合いでみんなの意見を聞くことによって他人の価値判断を知ると同時に、自分で価値判断をしていく学力が子どもたちに必要だという考えに基づいているんですね。
 ここで大事なことは、もし修身のような旧来の道徳教育だと、その境界を大人がきっちり決めて、『これはうそつきですよ』と上から教え込むことになるということです」 (P17)

これに続いて、平田オリザさんも次のように指摘している。

「日本の国語教育は、一面で戦前の修身の代用品みたいにされてきたという歴史があって、どうしても、道徳的な読み取り、あるいは、規範的なことばの学習という傾向を、いまもずっと抱えています。読解力といっても、それが実は、社会の道徳観やその先生の価値観をくみとることだったりする。
 いま、『読解力』とか『考える力』とか『話しあう力』をほんとうに求めていくのであれば、教える側が持っている権力を放棄するような覚悟をしないと、学校の先生がまず、規制の価値観や道徳観の教え込みに対して敏感にならないとだめだと思うんです」 (P18)

やはり日本の外部規律に対する依存体質の始まりは、想っていた以上に根深いのかもしれない。

なのに、我が国の政府が立ち上げた「教育再生実行会議」というものあって、その会議は先月26日に、「道徳の教科化」などを含めた提言を取りまとめ、安倍晋三首相に手渡している。「道徳の教科化」。さすがに「修身」という言葉こそ使っていないが、もう「外部規律の押しつけ」のニオイがプンプンと漂ってくる。やれやれ。

では、日本でもどういう教育を行っていけばいいのか、
北川達夫さんの提言を紹介してみたい。

「家庭教育でも、学校教育にしても、子どもには『だめなことはだめだ』と厳しく教え込むべきだという意見や要請がありますが、わたしは『だめだと言われたからだめなんだ』と思う子どもを育ててはいけないと思っているんです」 (P35)

「相手の見解があって自分の見解がある、それが対立するとお互いが変わってくる。まさに、その変わってくるところを楽しめるか。そこを重視できるかですよね」 (P175)

一方、
平田オリザさんのの提言は、次のようになる。

「対話の場を作るには、そういう、答えが一つじゃない、あるいは、すぐに答えを決めない授業を増やしていかないとだめでしょう。それは学校の先生たちにとっては大変な事なんだと思います。やっぱり答えが一つで、そしてその一つの答えを先生がふところにかくしておいて、最後にぱっと見せるというほうが、子どもたちをコントロールしやすい、楽な授業なんですよね」 (P51)

「これからの日本社会は、協調性(価値観を一つにまとめる能力)がいらないとは言わないけれど、それよりも社交性(異なる価値観をそのままに、知らない人同士がどうにかうまくやっていく能力)が必要だ」 (P218)

平田さんの、「答えがひとつしかないことを教える授業」の背景には、その方が先生たちが「子供たちをコントロールしやすい」という理由があるという指摘。これにはドキッとした。

今年1月11日のブログや、2月1日のブログでは、「全てをコントロールしたがる大人たち」について書いている。結局、学校の教師も、そうだったのである。だけど「体罰問題」でも指摘したことだと思うが、子供は、そもそもその全てをコントロールできるものではないし、コントロールしてもいけないものなのではないか。それなのに「子供をコントロールしやすい教育」を追い求めてきた結果、「外部規律」に依存する体質が生まれてしまっている。そんな側面が今の教育現場にあるのも否定できないのでは、と思う。

しかし、こうした状況に「逆巻き」をかけるような安倍政権による「教育改革(再生)」の行く末が、怖いと想うのは少し考えすぎなのだろうか。

 

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