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2013年3月19日 (火)

「政治に限らず、我々の周りには人気投票やランキングであふれかえっている」

ここ数回のブログでは、自己規律ではなく、外的な規律、外部規律に依存してしまう社会体質についての言葉をツラツラと並べてきた。

そこで、ハタと思ったのが、数字・数値だけでしか判断しないというのも、外部規律依存の象徴的なことなのではないか、ということ。企業や教育、スポーツの現場にも、「時間がない」「効率化しろ」という御旗のもと、数値・数字だけで査定する傾向はますます強まっている気がする。今回は、最近チェックした「数値」を巡る言葉を並べてみたい。


まず、メディアの世界。朝日新聞(2月27日)で、文化くらし報道部の田玉恵美さんは「テレビ視聴率」について、次のように書いている。

「テレビの見方は多様になった。それなのにテレビ局はおろか、我々メディアも数字が良いの悪いのと騒ぐ。ただの『広告指標』が、実質的には番組の質に対する評価軸としても利用されている」 

広告のためのひとつの目安のような数字が、そのまま全ての「評価軸」なってしまう。

2008年のことだけど、 NHK『クローズアップ現代』(6月4日)では「ランキング依存が止まらない~出版不況の裏側~」という放送を行った。ランキングでしか本を選べない今の読者の傾向と同時に、ランキング上位に入っていない本は、すぐに返品するという書店側の状況も報告されていた。自分の興味、目利きで本を選ぶのではなく、「ランキング」という外部データに頼る。「ランキング依存」というのも、まさに「数値・数字」依存の代表選手なのだろう。

そういう意味では、政治報道ではやっている「世論調査」も、ランキングのひとつと呼べなくないか。


ちょっと前だけど、
雑誌『サイゾー』(2009年4月22号)では、共同通信政治部の柿崎明二さん『「世論調査依存症」が生み出す衆愚政治』という記事を書いていた。政治家は、世論調査による数字によってでしか、次の総裁候補や政策を選べなくなっている。いうような内容だったと思う。
 

また同じころ、『ビデオニュース・ドットコム』(2009年7月4日)でも、『世論という名の魔物とのつきあい方』というテーマを扱っていた。国民のほうも、選挙の前の世論調査でしか、候補者を選べなくなっていることなどを話していたと思う。出演していた宮台真司氏のホームページには、こんな言葉が残っている。 

「政治に限らず、我々の周りには人気投票やランキングであふれかえっている。そうしたものに振り回されないで生きるためには、我々は何を支えに、どのような視座で『人気』というものを考えればいいのだろうか」 

さて、最近の言葉に戻る。その政治の世界について。作家のあさのあつこさんが、毎日新聞(2012年12月16日)で次のように語っている。 

「今度の選挙で異口同音に発せられる『強い国』『日本の立て直し』というフレーズ。その強さを立て直すという方向も実に分かり易い。経済力、軍事力、GNP、GNE。ほとんどが数字で表すことができる。彼らの言う『強い国』とは、そういうものなのだ。全てが借り物のにおいがする」

数字でしか「国のかたち」や「国の目指す方向」、もしかしたら「美しい国」というものさえも表現できなくなっているということなのかも・・・。

もうひとつ政治について。 江戸研究の田中優子さんと、文化人類学者の辻信一さんによる共著『降りる思想』から。

田中 「それが松下政経塾の発想なんだと思うんですよ。政治と経済がくっついていて、経済のために政治があるという考え。すべてを数字で計算し合理化していく。政治家は、じつは全員新自由主義者か、と() 

  「そういう意味では、原発のコストにしてもそうですが、コスト・パフォーマンスとか、費用対効果という言葉がすごく使われるでしょう。まるで、それさえ言えばなんでも説明できる、魔法の小槌みたいに。これが問題の根本かもしれないですね」 (P34)

しばらく追っていた体罰がらみの言葉。スポーツライターの小林信也さんが、読売新聞(2月14日)の『指導と体罰』という特集で語っていた。指導者やメディアに対する批評である。

「スピードや筋力など、目に見える数字や動きばかりに目を奪われる風潮も強い。スポーツの原点は自分との戦いだ。人間を動かす原動力は筋力ではなく、心だ

思想家の内田樹さんは、あちこちで目にする「数値目標」というものについて、著書『合気道とラグビーを貫くもの』で次のように話している。


「数値目標というのはいけないですね。百害あって一利なしだと思う。でも、それはもういまや日本全国、企業でも学校でも、どこでもそうなってしまっている。数値目標を掲げて、数値目標を達成できたかどうかで努力を評価するということをやっている。
 
数値目標なんて完全に査定する側の都合で設定されたものですからね。数値が出るものは査定できる。数値が出ないものは査定できない。それだけのことです。それは査定する側の目に数値的でない努力や外形的にはみえにくい変化を感知する能力がなくなっているということにすぎません」 (P128)
 

視聴率と同じ構造である。査定する側のひとつの目安でしかない「数値・数字」という外部データが、やがて「スタンダード」「外部規律」のように崇めたてられる。そして、その「数値・数字」だけに社会全体が振り回されてしまっているような気がする。

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