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2013年3月11日 (月)

「処罰への恐怖だけで規律を守っている人は、規律が利かない場面、処罰の恐れがない場面では、いきなり利己心や暴力性を噴き出してくる」

先日のブログ(2月13日)でも紹介したが、著書『荒天の武学』の中で、思想家の内田樹さんは、次のように語っている。

「今の日本人が失った最たるものは、その自己規律ですね。外的な規律は、違反すると処罰されるから、恐怖ゆえに違反しない」 

「自己規律が内面化された人は、外的な規律や処罰の有無とは無関係に、自分で決めたルールに従って行動する」 (P234) 

日本人は、「自己規律」を失い、「外的規律」に従う風潮がある、という指摘である。この指摘もまた、前回(3月7日)のブログに書いた「ルールや法令をやみくもに遵守する」という問題と、基本的には同じ構造である。 

活動家の湯浅誠さんの著書『貧困についてとことん考えてみた』には、こんな言葉もあった。 

「一律が好きだというのは、やはり、自分に自信がない。自分自身の判断基準を持っていないということじゃないんでしょうか」 (P166) 

日本社会の特徴としてよく指摘される「一律」、「空気を読む」というのも、すなわち「外部規律」に従うことである。まさに一律に「外部規律」に従ってしまうと、社会が一気に同じ方向に流れるという現象が生まれる。そうやって日本はかつて戦争に突入したのである。 

少しだけ話は飛ぶかもしれないが、「人権」というものについて、先日、「ビデオニュース・ドットコム」の『ニュースコメンタリ』(2月23日)で、社会学者の宮台真司さんが、次のように説明していた。 

「公共の秩序をどう理解するかというときに、人権内在説(社会内在説)という立場と、人権外在説(社会外在説)的な立場と言うのがある。前者が連合国的、後者が枢軸国的」 

その「人材内在説」について、宮台さんは次のように説明する。 

「前者はお互い人権は持っている、お互いの人権がバッティングし両立不可能なときに、どうするか。片側だけが人権を主張することが許されない。人権の両立可能性の問題に照準化する。もうひとつ重要な問題は、お互いが人権を実現、有効利用するのに必要なプラットホーム、コモンズですよね、そうしたものも公共の秩序にあたるわけ。これは国家が提示するものではなく、僕らが市民社会を営む上で、場の存在とか、インフラの存在とか、メディアの存在とか、そうしたものが必要だと思えば、それが潰されてしまうことも実は公の秩序への侵害なんだと考える」 

これに対して、「人権外在説」については次のように説明している。 

「人権外在説という立場というのが、まったくそれとは違っていて、市民社会で人々はなにをどう考えていようが、それとは関係なしに、良き秩序という観念が存在していて、良き秩序という観念を提示するのは統治権力。だから市民社会、人権という概念の外側から良き秩序という概念が覆いかぶさるかように入ってきて、それが人々を規制できるんだという考え方」 

この話も非常に興味深く聴いた。これも人権をめぐる「自己規律」と「外部規律」の話なのである。同じ構造だ。統治権力が定める人権、すなわち外部が定める人権(外部規律)に個人は従え、というのが戦前の日本を含めた枢軸国の考え方で、それを連合国が駆逐して、世界標準となったという。 

最近の政治の状況、自民党の憲法改正案などをみていると、またしても戦前の「人権外在説」に戻ろうとしているのではと考えたくなってくる。体罰問題から、憲法問題まで。もはや「外部規律」から脱せない日本社会の「病」は、そうとう深刻な根深いもののように感じられる。 

では、なぜ外部規律に依存してしまう状態が心配なのか。 武道家の光岡英稔さん『荒天の武学』で、次のように語っていた。

「戒律を『守らなくてはいけないもの』というふうに自分の外に置いて、求めるものにしてしまうと問題です。自己責任ではなく、ルールに従わないといけないものになってしまう。そのルールを守っているから『書かれていないことには従わないでいい』という甘えをつくってしまう」 (P234) 

この本の中で、内田樹さんも次のように語る。 

「処罰への恐怖だけで規律を守っている人は、規律が利かない場面、処罰の恐れがない場面では、いきなり利己心や暴力性を噴き出してくる。これは本当にそうですね。外的規律の厳しい集団で育てられた人ほど、無秩序状態のときにでたらめな振る舞いを始める。自己規律が内面化された人は、外的な規律や処罰の有無とは無関係に、自分で決めたルールに従って行動する」 (P234) 

ホリエモンの事件を思い出した。法・ルールが整備されていない部分では何をやってもいいという考え方。結局、外部規律に依存するからこそ、ときに「暴走」を生む。そういってもいいのかもしれない。

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