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2013年4月17日 (水)

「私は社会の眼は、発明や研究をよりよくエンカレッジする力として働くと思っています」

4月1日のブログでは、国やマスメディアが、「パニックになるから」といった理由で情報を隠ぺいする体質があることを指摘する言葉を並べた。

書籍『メディアの罠』の中にも、まったく同じ指摘があったので、それを紹介したい。ジャーナリストの神保哲生さんは、その本の中で次のように語っている。 

「つまり一般市民に本当のことなんて教えてしまったら無知な市民がパニックして大変な事になると。でも実は、いちばんパニックを起こしているのは政府でした。悪い情報を出したときに、たとえば住民が逃げようとするのは、当たり前の危険回避行動でさってそれはパニックではありません。むしろ、どうしたらいいか分からなくなり、判断が下せずに不合理な行動をとってしまう状態こそがパニックです」 

「震災と原発事故で起きたことは、日本を支えていたはずのエリートこそが真っ先にパニックに陥ってしまっていた、ということだったと思います。これをエリート・パニックと言うそうですが、そこには既存のメディアも含まれています」

「『事実を明かすと国民がパニックになるから』といった言い方が、まさに市民を愚民視した自分たちが特権的な地位を享受していることを当たり前のこととして思ってしまっている霞が関官僚や大手メディアの傲りの典型的な態度だと思います。要するに市民を信用していない。しかも、その政府や大メディアの上から目線や愚民観こそが、市民の疑心暗鬼を呼んでいることに気づいていないわけです」 (P208) 

前回と取り上げたものと、まったく同じことを指摘している。さらに、『「知」の挑戦』という本の中で、朝日新聞で『プロメテウスの罠』を担当する依光隆明さんは、次のように語っている。 

「ところが現実には情報を出す本人たちがパニックになってるし、国民がパニックになることを懸念した-と細野(豪志)さん(当時、首相補佐官)があとでいうんですが-そのためにろ過された情報であるがために、結局、出てくる情報が現場の実態とは大分違った情報になってしまって、それが繰り返されることによって、大本営発表という評価につながった面もあるように思えました」 (P60) 

もうひとつ。同じ文脈だと思うものを紹介しておきたい。ピーター・バラカンさんは、著書『ラジオのこちら側から』で次のように書いている。 

「色々な国の写真家が参加する写真集を見ていて、海外のカメラマンに比べて、日本人のカメラマンには見る人に突き刺さる写真を提示することや、衝撃を与えることへのためらいがあるのでは、と感じたことがあります。憶測にすぎませんが、日本のメディア全体に、『インパクトを与えてはいけない』という抑制が(無意識に?)あり、写真や報道にその判断があらわれるのではないか、と感じるのです。しかし、現実を伝えない報道にどれだけの価値があるのか」 (P184) 

以前のブログ(2012年10月3日)で、東日本大震災で日本のメディアが「遺体」の写真を載せなかったことについて触れた。過剰な配慮や暗黙のルールを優先しすぎているという意味では、同じことだと思う。

ジャーナリストの辺見庸さんと、一橋大学教授の鵜飼哲さんの対談が、著書『国家、人間あるいは狂気についてのノート』に載っていた。そこで以下のように語られている。

辺見 「いまは集団的な死というものの凄絶さをすぐに消しますよね。被災地から帰ってきたカメラマンから苦労話を聞きました。どこを写しても手や足が写るのに、メディアはそれを丹念に消していくのだそうです。異様な世界ですよね」

鵜飼 「系統的に隠すようになったのはいつからでしょう。七〇年代半ば以降、急速に消されていった気がします。<九・一一>のときも映像には死体が一切出ませんでした。写真評論家の西井一夫さんの話では、戦争中、日本軍は日本への死体の写真をまったく出さなかったそうです。ある意味で、いまは戦争中と同じ扱いをしているということになります」 (P193)
 

3月25日のブログで紹介した作家の森達也さんの言葉ではないが、国もメディアも、そして我々も、「もっと社会を信用する」姿勢こそが、今、必要な事なんだろう。そこで今回は科学者の池内了さんが、科学について話した言葉で終わりたい。こちらも『「知」の挑戦』から。

「『デュアルユース』といういい方があります。一つのものごとに二方向の用途があるという意味です。科学とは往々にしてそういうものです。一つのものが軍事用にも民生用にもなる。毒にも薬にもなる」

「歯止めになる方法の一つとして、私はとりあえずすべてを『公表』しましょうといっているのです」

「そうすれば、完全に悪用を抑えられなくても、ある程度の抑止力にはなるでしょう。また、取り組んだ成果がよりよい方向に向かっていく推進力にもなるのではないでしょうか。私は社会の眼は、発明や研究をよりよくエンカレッジする力として働くと思っています」
 (P220~1)


物事には、常に二方向の側面がある。それを社会を信用して公表すれば、パニックの抑止力になったり、いい方向への推進力したりもする。政治、メディアにも当てはまることだと思う。


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