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2013年4月15日 (月)

「現場でやってみて、まずいと分かったら、すぐに直せるシステムじゃなきゃいけないんと思うんです」

前々回のブログ(4月11日)では、「忘却」「忘れる」にまつわることばを並べた。この週末、たまたま建築家の隈研吾さん著書『建築家、走る』を読んでいたら、「忘れる」についての言葉があったので、それも追加として載せておきたい。

「東日本大震災後、『これからどういう建築を建てたいか』ということを、いろいろなインタビューで聞かれました。僕が建てたいのは『死』というものを思い出させてくれる建築のことです」

「関東大震災以前の、日本の木造の街は『死』と共存していました。なぜなら木の建築は、生物は必ず死ぬものだ、ということを教えてくれるからです。変色し、腐っていく木を見ながら、ああ自分もこうやって死ぬんだな、とゆっくり感じることができる」

「一方、コンクリートや鉄でできたピカピカの建築を見ていると、生物が死ぬこと、自分が巣にことを忘れてしまいます。20世紀のアメリカ人は、ディズニーランドのような、死を忘れさせてくれる建築で都市を埋め尽くそうとしました。日本人もそれを真似て、死と近くにいた日本の街も、今やすっかり死から遠くなってしまいました」
 

「死を忘れるとは、自然を恐れなくなることと同じ意味です。死を忘れ、自然を恐れなくなると、どんなにあぶない海際にでも、平気でコンクリートや鉄の建築を立てるようになる。原発がどんなに増えても、気にならなくなります」 (P172)

前々回のブログで触れた中島岳志さんやいとうせいこうさんの言葉とも重なる。もしかしたら、今行われている東日本大震災の復興事業というのは、大がかりなプロジェクトとして進められているが、それは急いで「死」を封じ込めようとしているもののかもしれない。 

社会学者の山下祐介さん著書『東北発の震災論』で、書いていた次の言葉を思い出す。 

「『復興』を進める事業のためには、人の暮らしはどうなっても構わないという力学が生まれているようだ」 (P269) 

本来、「人の暮らし」と「死」とは切っても切れないものなのだろう。 

もうひとつ。ちょっと前の毎日新聞夕刊(3月14日)で、隈研吾さんは次のように語っていたのも思い出す。 

「木造って、いったん建てた後でも自分たちの暮らしの変化に合わせて壁の位置を変更したり、絶えずちょこちょこ手直しできるでしょ。あの発想、やり方がいい。一方コンクリート建築は改造が困難で壊すのに大変な労力がいる」

これからの時代は頭の中で考えた抽象的なものではなく、現場でやってみて、まずいと分かったら、すぐに直せるシステムじゃなきゃいけないんと思うんです」
 

このブログの最初の頃は、システムについて考えさせてくれる言葉や文章をよく並べていた(2011年11月24日など)。既存のシステムについては、一気に変えることよりも、少しずつ手直ししうる「更新」する作業の方が大切じゃないかという指摘をしたつもり。上記の隈さんの言葉は、それにも通じる。

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