「俗っぽい事件まで、何やらものすごく大層な事件化のように仕立て上げてしまう。これは日本メディアの一つの病理です」
ここ3回(4月3日のブログから)では、メディアが抱えるランニングコスト、それがジャーナリズムの居場所を狭め、そして世の中で進んでいく「単純化・簡略化」を後押ししている、という指摘の言葉を並べてみた。
この週末に、3人のジャーナリストによる著書『メディアの罠』を読んでいたら、もっと詳しく話し合われていた。そこからの言葉も並べておきたい。この本は、ジャーナリストの青木理さん、高知新聞の高田昌幸さん、ビデオジャーナリストの神保哲生さんによる対談を中心にまとめられたもの。
まずは、メディアが抱える「ランニングコスト」について。青木理さんの指摘から。
「誤解を恐れずにいえば、新聞記者なんて所詮は“ブン屋”といわれ、本来は蔑まされているような職業だったのに、給料をもらい過ぎなんです。いや、かつては所詮“ブン屋”だからこそ、せめて給料くらいは高くしなくちゃという側面もあったのかもしれないんだけど、最近の“ブン屋”は社会的地位もプライドも高い上に給料まで高くなってしまっている」 (P32)
「もう一つは部数です。800万部、1000万部なんていうお化けみたいな巨大部数を持つ新聞、これは明らかに大衆紙でしょう。大衆紙だからこそ、いわゆる事件報道を極度に偏重する。俗っぽい事件まで、何やらものすごく大層な事件化のように仕立て上げてしまう。これは日本メディアの一つの病理です」 (P33)
神保哲生さんは、今のメディア企業に対して、次のように指摘する。
「あまりにも特殊な環境の下で超のつく高コスト構造ができてしまい、試験管の中でしか食えないビジネスモデルになってしまった旧メディアは、インターネットに参入しようとすると、稼げないマーケットでのシェアを増やすばかりで、稼げるシェアがどんどん喰われていく」 (P21)
高田昌幸さんによる新聞社の「体質」についての言葉も興味深い。
「日本の新聞社は部数だけでなく、博覧会やらスポーツ大会やら何やら報道業務とは直接関係ない事業を多数抱え込んでしまった。組織が大きくなりすぎると、その組織維持が目的になる。保守化、官僚化の始まりですね。それが極まった。独創的な判断や行動は、官僚的組織には邪魔ものですが、一方では、パターン化された行動を重宝するようになります。融通が利かないし、決断も遅くて鈍い。そういうマイナス面が原発事故報道では、すべて出てしまったように思います」 (P304)
社員記者たちの人件費、巨大な発行部数などなど、高コスト構造を抱え込む。結果として、硬直化した取材が増えるだけでなく、「事件報道の偏重」が起きてくるということなのだろう。
高田昌幸さんの言葉から。
「事件報道が年々、過大、過剰になってきたように思います」 (P140)
「画一化とセンセーショナルな傾向が強まってきました。それはとくに、北朝鮮報道や大事件・大事故報道において顕著です。みんなが報道するから、うちも報道する。その代わり他社より少しだけ派手に行こう、みたいな感じですね」 (P44)
青木理さんも、紙面の変質を指摘する。
「取材力の低下なのか、そもそも取材をしなくなっているのか。新聞で言えば、読み応えのある長期の連載記事なども、かつてより随分と減ってしまったように思います。逆に一つ一つの記事が極端に短くなり、単純で表層的な分かりやすさばかりが優先される」 (P84)
そんな中、ネットへの比重をより増やすジャーナリズム。そこでは「売れる記事」が求められていく。高田昌幸さんの指摘から。
「ネットのアクセス・ランキングを見ると、アサヒ・コムにしても読売オンラインにしても、三面記事的なものが上位に並びますよね。ヤフー・ニュースのランキングは典型的です。ネットへの移行が進み、伝送路をネットに依存する度合いが増すと、その傾向はますます強まるでしょう。『記者も売れる記事を書かないといけない』と言われるけど、本当にそれを最優先していいんですか、というのが最大の問題です。私はそこにも危機感がある」 (P173)
青木理さんも次のように語っている。
「僕が通信社の記者として働いていた時は、この記事が売れるとか、売れないとか、一片たりとも考えなかった。部数や視聴率という数字が如実にあらわれる雑誌やテレビと、宅配制度で支えられた新聞業界のそこは圧倒的な差異だったでしょう」 (P182)
以前、このブログで、我々の生活は、社会の埋め込まれたランニングコストのため、野球観戦の自由(2012年12月22日のブログ)、さらには、個人の移動の自由(2012年12月25日ブログ)や住まいの間取りの自由(1月15日ブログ)が奪われている、というような言葉を紹介してきた。
まったくジャーナリズムも、同じ構造なのである。抱えるランニングコストのために、取材の自由や紙面の自由が奪われる。さらには、我々が「単純化していない社会」に住む自由も奪われているのかもしれない。
やれやれ。『武士の家計簿』について書いたブログ(1月31日)を思い出す。その本で指摘されていたのは「武士がランニングコスト過多から自由になるためにも明治維新は必要だった」ということ。さて、今のジャーナリズムが、ランニングコスト過多から抜け出すためには、どこから手を付けていくべきなのか。
この『メディアの罠』には、まだまだ興味深い指摘があったので、追って掲載してみたい。
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