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2013年4月 1日 (月)

「国民を判断力のない子どものように扱って、愚弄しているにすぎない」

「憲法」についての言葉から、「国家」についての言葉を,、前回のブログ(3月28日)では紹介した。少し内容的には変るが「国家」と「国民」に関わる話を、もうひとう紹介したい。

朝日新聞の元主筆で、日本再建イニシアティブ理事長の船橋洋一さんは、東京新聞(3月24日)で原発事故における国の対応について次のように批判している。 

「国は起こり得る原発のリスクを透明にし、国民の前に見せるべきなのに、まだ隠そうとしている。出せばパニックになるというが、それは自らがパニックになるだけの話だ。国民を判断力のない子どものように扱って、愚弄しているにすぎない」

船橋さんによる「国家は国民を愚弄している」という指摘は重いと思う。 

同じような指摘が、『誰がこの国を壊すのか』での森達也さん上杉隆さんの対談でのやりとににもある。それは以下の通り。 

上杉 「細野豪志大臣が言っていましたし、枝野幸男さんも最後に認めましたけど、事故直後の段階ではとても事実を言うことができなかったと。あそこで発表したらパニックになったからと言う。だから、政府とマスコミだけが知っていればいいのだと。それはとんでもない選民意識です。それと、国民には冷静な判断ができないと思い込んでいる。衆愚という意識があるのですよ。驕りですよね、政治とメディアの」

森  「レベッカ・ソルニットはその著書『災害ユートピア』で、災害や事件があったときにパニックになるのは現場の人々ではなく、むしろメディアや政府中枢部などエリート層であると指摘しています。現場でパニックが起きるのではないかと、彼らはパニックを起こすのです」

上杉 「今回の原発事故でパニックになったのは政府なのです。さらにメディアがパニックを撹拌した」 (P93~94)

ジャーナリストの辺見庸さんは、沖縄タイムズがまとめた『この国はどこで間違えたのか』で、メディアがパニックを避けようとしていた状況を、次のように語っている、

「複数の在京メディア関係者から実際に聞いた話で、福島第一原発の事故のときに当初からメルトダウンが起きたことは分かっていたと。でもメルトダウンという衝撃的な用語を使わせない空気が社内にあった。で、メルトダウンという言葉の使用をみんなで避けたと。それがしばらく続いた」 (P263)

僕自身、震災発生当時は、メディアの一端にいた。そこでも、パニックを起こさないための、同調圧力は確かに感じた。ニュース原稿を書くにも、パニックにつながらないように注意に注意を重ねた感じだ。でも・・・。ある人に正直に吐露したことがある。「我々に必要なのは、パニックを受け容れ、それと向き合うことではないか」と。おそらく明治維新にしろ、敗戦直後にしろ、日本はある種の大きなパニックに襲われたのだと思う。そのパニックの中で向き合い、新しい価値観、新しい社会をつくり出していったのではないか。

無論、避けられるパニックは避けるべきである。ただし必要以上にパニックを避けることだけに労力をかけるのも違うだろうし、また回避と先送りも違う。

今回の大震災と原発事故の場合、政府もメディアも「国民はパニックを向き合うことはできない」と勝手に判断して、パニックの要素、すなわち「事実」を必要以上に隠した。それによって、我々は、自分たちのシステムを「更新」すべきチャンスもタイミングも逸してしまったという側面もあるのではないか。しかも隠したり、先送りしたりしたパニックの要素。それは細分化して、個々の中に澱のように溜まっていって、あちこちの末端では「破たん」が起きているのではないか。地域社会の破たんや、個人における心の病気などとして…。

必要以上に「パニック」や「リスク」というものを避けたがる風潮や体質についても、またの機会にいろいろ考えてみたいと思う。

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