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2013年5月15日 (水)

「『本当の正しさ』を突き詰めていくと、人は狭量になり、寛容さを失っていきます」

「わが国の考え方が十分に理解されていないことは残念だ。正しく理解されるよう、積極的な情報収集や発信に努めていく」

上記の言葉は、一昨日(13日)の参議院予算委員会で、安倍総理がアメリカ議会調査局の報告書を受けて語ったものである。個人的に引っ掛かったのが、このなかの「正しく理解されるよう」という言葉。「正しく理解」というのは、どういうことなんだろう、そんなものはあるのか、と素朴に思ってしまう。権力者が「正しい」という言葉を簡単に使うことに、なんだかモヤモヤとしたものを感じるのである。 

そこで、今日は、「正しさ」「正解」といったものについての言葉を並べてみる。 

作家の高橋源一郎さんは、読売新聞(2012年3月6日)で、次のように述べている。 

「『本当の正しさ』を突き詰めていくと、人は狭量になり、寛容さを失っていきます」 

まさに、今の日本の風潮を表した言葉だと思う。 

さらに高橋源一郎さんは、東京新聞(2012年9月16日)でも、次のように書く。

「みんな『正解』があると思っている。そして、こっちが正解なら相手は間違っていると、違う意見をつぶそうとする。正解がみつからないと、正解はどれ?と空気を読む。オールオアナッシング(全てか無いか)です。でも正解はない。空気を読む必要もないってことが大事なんですよね」

もうひとつ高橋源一郎さんの言葉。ツイッター(2012年3月4日)から。

「無理矢理回答を迫ること、その回答者に、専門家なみの知識を要求すること、自分の意見だけが『正しい』と考えること、その結果として、自分の意見の反対者は、無知で愚昧な人間が『悪』であると考えること。『悪』であるから排除して当然と考えること。おかしいじゃん、どれも」
 

正しさを求めれば求めるほど、社会が息苦しくなってくる。まったく同じことを、茂木健一郎さんも書いている。著書『新しい日本の愛し方』から。 

「そもそも、一つひとつの問題に『正解』があり、その『正解』に早く到達することが学力の優秀さの表れであり、大学の入学者の選抜はどれくらい多くの『正解』を答えられるかによって行われるべきだという日本人の思い込み自体が、現代の文明の中では、もうはやどうしようもなく時代遅れになっていしまっている」 (P46) 

「『正解』を求めることを、自分にも他人にも強制する文化の下では、人は次第に息苦しさを感じるようになってくる。昨今の日本が、まさにそれであろう」 (P77) 

社会学者の開沼博さんは、「正義」という言葉をつかって、次のように指摘する。著書『漂白される社会』から。 

「『正義』は常に重層的なものだ。それは、それは社会の中に常に複数、分散、乱立して存在する。しかし、あたかも一つの『正義』があるかのように装うことで社会は凝縮し、安定を保とうとする」 

「『正義』『善良』『合理』『中心』、あるいは『普通』といった価値。それらは常に、その時々の状況で一時的に構築されたものだ。
 
ただ、その重層感に無自覚なままに、一つの絶対的な『正義』を求め続けることは『正しさなき“正義”』や『普通でない“普通”』を生みだしていくだろう。それが結果的に、ナイーブな正義が求めていた良き社会の実現をむしろ遠ざける結果になるのならば、その『善意』にとって不幸なことである」 (P283)


善意が結果として、息苦しい社会をつくっていく。 

美術家の森村泰昌さんは、福岡伸一さんの対談本『エッジエフェクト』で、次のように語っている。

「『正しい』が勝つのです。今の日本の文化の欠落部分は、そこにあるのではと思いますね。価値基準を計る際に、美という物差しがまったく通用しないのです。美という物差しで計ろうとした途端、完全に無視されますから」 

「正しいか、正しくないか」でしか判断したり、考えようとしない社会。たとえば「美しいかどうか」「面白いかどうか」「落ち着くかどうか」「気が抜けるかどうか」など、本来、物事の判断基準はたくさんあってしかるべきなのに。 

そもそも一つの「正しい」というものや、一つの「正解」というものがあるのだろうか。政治の世界にも、そのほかの世界にも。ジャーナリストの田中良紹さんは、 自身のブログ『国会探検』(2012年2月25日)で次のように書いていた。

「正論はさまざまである。全員が正しいと思うことなどまずない。誰かが『正しい』と言えば、別の誰かが『正しくない』と主張する。時代が変われば正しさの基準も変わる。正しい事を実現したと称賛された政治が、後に批判された例はいくらでもある」

確固とした「正しいもの」、「正解」はない・・・。では我々は、どう振舞っていけばいいのか。
 

最初に紹介した読売新聞(2012年3月6日)のインタビューで、高橋源一郎さんは、次のようにも語っている。

「あることが正しいかどうかという判断は、個人が自分の責任においてすればいいことです。正しさは幾つもあると教えるのが、我々教師や作家の責務なのかもしれません」
 

長くなってしまったけど、あと2つだけ。まずは、棋士の羽生善治さんの言葉。雑誌『AERA』(2012年12月10日号)から。

「大切なことは、『この場面に、答えがわからない』ということがわかるかどうかです」
 

最後にアンドロイドなどを作る大阪大学の工学博士、石黒浩さん。次のように語っている(出典は失念)。

「もちろん正解なんてない。でもその答えを追い求め、悩み、考え続けることが人の存在価値なんだと思います」

正解がない、つまり答えがない。だけど、だからこそ、それを揺れながら、追い求めることに意義がある。そういう理解や振る舞いからは、きっと相手に「正しいもの」や「正解」を押し付けるという姿勢は生まれてこないのではと思うのだが。



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コメント

 演繹法と、帰納法の違い。
 演繹法ジャンル?の思考が、ITに寄るビックデータ処理すら可能とした現在に於いて、いつまでも演繹法に特化した教育を続ける事は、やがて大鑑巨砲主義を生むのでしょうね。
 そして、管理がより高度になればなるほど、、、『あなたはあなたでよいのだ。』を、否定して行く。
 自殺者が増える世の中を作るだけだと感じます。

本当の正しさって人それぞれ自分が本当に正しいと思うから解りにくいけれど、本当の意味での本当の正しさはあり、それを突き詰めれば皆が仲良くなれる様になっている。ただ、正しさを知っても、それを行うための愛がなければ寛容さを失う事も在る。だから、正しさを突き詰めると寛容さを失うというのは正しくない。ただ愛が足りないだけ。また愛だけあっても本当の正しさがなければ皆仲良くなれない。必要なものの何かがかければ巧く歯車は回らない。なのになぜか、どれかひとつ、こっちが正しい、いやこっちが正しいと譲らない。だから皆仲良くなれない。今の世の中がまさにこういう状態。皆間違っているのに自分が正しいと譲らない。皆自分が未熟だと気付かない、認めないから治せるものも治らない。

正しさを求めると、その時自分が重きを置いている枠にとっての正しさとなり争いの元にもなる。
真の正しさは、正しさを求めるのではなく、皆が本当の意味での心が良い状態での仲良くなる事を願い想い真心と愛をもって考えれば、自然と真の正しさへと辿り付く。それは悟りとなり、また人間が自分達の都合で決めた法とは違う、皆が受け容れざるを得ない真の人の世の法が解る様になる。

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