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2013年5月28日 (火)

「ぼくはね、平等や公平って、どういう意味なんだろうと考えるんです」

前回のブログ(5月22日)、「平均」というものについての言葉を並べた。
その中で、藻谷浩介さんの「平均値と個人は違う」という言葉はお気に入りである。「平均」で表せる具体的な人はいなくて、個人個人はそれぞれ別々の事情を抱えているということである。 

今週、ビデオニュースドットコム『Nコメ』(5月25日)を聴いていたら、その藻谷さんの指摘と同じような指摘があったので書いておきたい。先週(5月21日)、日本外国特派員協会での記者会見で、ロシアの生物学者、アレクセイ・ヤブロコフ博士がチェルノブイリや福島の原発事故に関して、次のように語っている。

「『平均実行線量』とは何か。これは広範囲に使われている概念ですが、個々人の本当の被線量を反映してません。それは例えば『平均体温』と同じように、あくまでも『平均』に過ぎないのです」

「『平均』などというものは科学的にはありえないのです」
 

このヤブロコフ博士の指摘について、社会学者の宮台真司さんは、次のように説明している。 

「今回の災害の場合には、システマティックに管理された場所にいるわけではないので、どこをどういう経路で逃げたかは分からない。特に初期の3日くらいは、通常の千倍以上の放射能があるところを逃げ回る中で、各個人がまったく別の体験をしているはずで、それを平均することに全く意味はないんだということ」 

ジャーナリストの神保哲生さんは、次のように説明する。 

「個人のリスクを特定する必要がある。運わるく、仮に1000人に3人でも、100人に3人でもいいけど、その3人になった場合に自分がしなきゃいけないことと、そうじゃない場合は違う。平均して0・3%だから大丈夫というのは・・・。ある人にとっては200%かもしれない、ある人にとってはゼロに近いかもしれない。平均すると0・3%、それが意味がない。その数字に混乱させられている」 

個々の事情をみることなく、現場を平均値という枠に押し込めて、政策、対応を行うことにどれだけ意味があるのだろうか、ということである。これは前回も触れたが、教育や地域政策においても全く同じことが行われている。 

今回も、乙武洋匡さんの言葉を引用する。今度は、小説『ありがとう3組』から。 

「ぼくはね、平等や公平って、どういう意味なんだろうと考えるんです。三十人の子どもに、一律同じサイズのTシャツを配ることが平等なのか。それとも体の大きな子にはLサイズを、小さな子にはSサイズをといったように、一人ひとりの体に合ったTシャツを配ることが平等なのか。これまでぼくらがやってきた教育って、きっと前者だった気がするんですよね」

発達障害の児童に向き合う桃井康隆という教師の言葉である。

「平等」、「公平」という言葉を使っているが、そのまま「平均」と置き換えることができると思う。いろんな場面で「平均値」だけを考えて対応することは、結局、楽なんだろう。だけど、そんな対応に意味はあるのだろうか。もっと「平均」というものについても、桃井先生のように「どういう意味なんだろう?」と揺れて考えながら、個々に目を向け、向き合っていくべきなのだろう。個々より平均が優先される状況は、ツマラナイと思う。

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