「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」
先週の日曜日、2020年オリンピックの東京開催が決まった。そのあと、「水を差す」という言葉をちょくちょく見かけ、とても気になった。そのいくつかを書いてみたい。
共産党の参議院議員、小池晃氏のツイッター(9月8日)から。
「ニコ生で原発についての首相プレゼンを批判したら『五輪に水を差すな』というコメントが」
思想家の内田樹氏のツイッター(9月10日)から。
「つづいて目白で朝日新聞のインタビュー。『五輪開催について』。『水を差すようなことを言う人』を探してウチダのもとにいらしたそうです。なかなかいないんです」
朝日新聞デジタル版(9月12日)で、コラムニストの小田嶋隆さん。こちらは「水を差す」ではなく「水をかける」という表現を使っている。
「なぜ水をかけるんだっていう同調圧力がある。反論しにくくならないか心配してます」
個人的に、この「水を差す」という行為や言葉について考えたことがある。
水を差し続けることで空気を揺らす。揺れることによって、そこから落ちてくるものを掬い上げる。これがメディアが基本的にやるべきものだと思っていた。
小田嶋隆さんも、TBSラジオ『たまむすび』(9月11日)で、次のように話している。
「(コラムニストとういうのは)本当は、空気を読めとか、同調しろとかいうものに対してザブザブ水をかける係ですね」
そうそう、そんな感じ。のはず。
しかし、ここ数年来、「水を差す」という行為は、メディア的にも、社会的にも、企業的にも、個人的にも本当に難しくなった。というか、許されなくなった。と思う。
その雰囲気を「sarabande」という方が、ツイッター(9月9日)で次のように表現していた。
「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気、空気、これは、知的ではなく、感情的な論理である。比較的多数の、空気にのって楽しんでいる多数派は、それに水をさされると、感情的嫌悪感で反応してくる。『キモい、怖い、マゾ』であり、排除である」
今や、「水を差す」ものは、「キモい、怖い、マゾ」という感情的嫌悪の存在なのである。そんな行為は、排除か、炎上の対象としかみられないのではないか。
もう一度思い出した方が良い言葉がある。かつて山本七平氏は、名著『「空気」の研究』で次のように書いている。
「『空気』とはまことに絶対権をもった妖怪である」 (文庫版P19)
「もし日本が、再び破滅へと突入していくなら、それを突入させていくものは戦艦大和の場合の如く『空気』であり、破滅の後にもし名目的責任者がその理由を問われたら、同じように『あのときは、ああせざると得なかった』と答えるであろうと思う」 (P20)
山本氏は、上の『「空気」の研究』に続いて、『「水=通常性」の研究』という文章も書いている。その文章から。
「『空気』を排除するため、現実という名の『水』を差す」 (P129)
「先日、日銀を退職した先輩によると、太平洋戦争の前にすでに日本は『先立つもの』がなかったそうである。また石油という『先立つもの』もなかった。だがだれもそれを口にしなかった。差す『水』はあった。だが差せなかったわけで、ここで“空気”が全体を拘束する。従って『全体空気拘束主義者』は『水を差す者』を罵言で沈黙させるのがふつうである」 (P92)
やはり「空気」というものに支配されないためには、「水」という現実を差す必要があるのだろう。
なのに。今の社会でも、「水を差す」ものは、『キモい、怖い、マゾ』となり、排除されてしまう。
となると、日本社会は山本七平氏の言うように「再び破滅へと突入」となってしまうのか。悲観論ばかりでは、本当にやれやれという気持ちになる。では、われわれはどうしたらいいのか。まだまだ考える時間は残されていると思うのだが。
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