「言葉なのに、対象をしっかりと指示せず、証さず、表そうとさえしない、私流にいえば”空の言葉”についてあれこれ考えていたのです」
今朝、TBSラジオ『森本毅郎スタンバイ』(11月21日)というラジオ番組の冒頭で、森本毅郎さんが次のようなことを話していた。
「今、世の中で注目を浴びている出来事、これは言葉が難しい。つくづく日本語は難しいと思う」
「”違憲状態”、”合理的な期間”、”恣意的な運用”、”第三者的な関与”…など、曖昧模糊としたものによって世の中が成り立っている。頭が痛い」
台所に立ちながら聴いていたので、はっきりすべての言葉を覚えているわけではないが、森本さんは概ね上記のようなニュアンスで、「最近の言葉」の曖昧さについて厳しく語っていた。聴いていて大きく首肯してしまった。
自分のツイッターで恐縮なのだが、以前のつぶやきを探してみたら、こんなツイートがあった。(2012年11月21日)
「帰宅後、久しぶりにテレビでニュースを観る。最近は、『冷温停止状態』『違憲状態』『原発依存脱却』などなど、輪郭のはっきりしないコトバの乱用が目立つ。『第3極』とか、『交渉加速』とかもそうだ。あいまいな言葉の多用は『危険』のシグナルのような気も」
確かに耳を澄ましてみれば、輪郭の曖昧となった言葉があふれている。例えば、特定秘密保護法案での「恣意的運用」「第三者的関与」。一票の格差訴訟での「違憲状態判決」「合理的な期間」。原発問題での「冷温停止状態」「脱原発依存」。などなど。よくよく考えてみると、なんだか焦点の定まらない言葉ばかり。
個人的には、曖昧な言葉が多用される世の中は、たいへんよろしくないと思う。
また森本毅郎さんは、8月に麻生太郎外務大臣が「ナチスドイツの手口に学べ」という失言をした時も、同じ番組で、「失言ですまされる問題ではない」と厳しく指摘している。(8月2日の『森本毅郎スタンバイ』)
「”失言”ということではなかったと思う。もっと根っこの部分に使う言葉の。言葉を使うということはその人の思想ですから、だからそこの使い方の矛盾というのは、麻生さん自身にちゃんと内在していると私は思う」
また沖縄タイムズ(6月21日)の社説には、以下のフレーズが書かれていた。
「政治家の言葉の劣化は、政治家自身の劣化にほかならない。
複雑に絡み合った利害を説得によって調整し、悲嘆に暮れる人々に希望と勇気を与える。 そんな時こそ、政治家の言葉の真価が問われる。重みを自覚し、言葉を磨いてほしい」
本来、言葉は政治家そのもの、であるはず。なのに、その言葉は磨かれ重くなるどころか、曖昧な軽い言葉ばかりが跋扈していく。そして、その曖昧な言葉に国民の方も支配されていく。
ドキュメンタリー映画監督の想田和弘さんは、新著『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』で、大阪の橋下徹市長をめぐる言葉について次のように書いている。
「思考は言葉です。思考の支配は、言葉を支配することによって成し遂げられます。橋下氏の言葉を進んで使う人々は、橋下氏の言葉によって思考を支配されているといえるのではないでしょうか。そして、思考を支配されているがゆえに、行動を支配されているのではないでしょうか」 (P11)
こんな言葉を並べてみたところで、本棚のある本を手に取る。作家の辺見庸さんの『瓦礫の中から言葉を』。改めて読んでみると、震災後、曖昧になっていく言葉についての記述ばかりなのに気づく。
「わたしが鬱々と考えてきたのは、結局、モノのことではなく、言葉のことです。言葉なのに、対象をしっかりと指示せず、証さず、表そうとさえしない、私流にいえば”空の言葉”についてあれこれ考えていたのです」 (P139)
「核燃料が融点を超えて溶解する事故は、『炉心の一部損傷』と同義ではありません。メルトダウンの定義どおりにきわめて重大な事故が起きていたのに、その事実は長く報じられなかったのです。国家権力だけでなくマスメディアも、だれが命じたわけでもないのに、『時勢』や『民心』を配慮し、みずから言葉を規制したのだと言わざるをえません」 (P96)
「大震災後の言葉に名状しがたい気味悪さを覚えるのは、言葉の多くが、生身の個のものではなく、いきなり集団化したからではないでしょうか。ファシズムには、じつはこれと決まった定義はないのですが、言葉が集団化して、生身の個の主語を失い、『われわれ化』してしまう共通性はあるように思われます」 (P171)
「言葉はいま、言葉としてたちあがってはいません。言葉はいま、言葉として人の胸の奥底にとどいてはいません。言葉はいま、自動的記号として絶えずそらぞらしく発声され、人を抑圧しているようです」 (P182)
「こうしてみると、私たちが経験する災危や出来事のすべてに。言葉が関わってくることがわかります。歴史の実相は、誰の目にも同じく明確なのではなく、言葉によって糊塗され、ゆがめられることがしばしばです」 (P97)
曖昧になっていく言葉への不安が次々につづられていく。こんな社会で、個々として何をすべきなのか。そんなフレーズも、この辺見庸さんの本の中から拾ってみた。
「ただ、やはり人の言葉は、もっとものごとの実相に、本質に迫っていくものでなければならない。腑に落ちる言葉がほしい。少なくともそういう努力を、もっと魂のいとなみとしてすることが必要なのではないかと思うのです」 (P58)
「それはいま語りうる言葉をなぞり、くりかえし、みんなで唱和することではなく、いま語りえない言葉を、混沌と苦悶のなかから掬い、それらの言葉に息を吹きかけて命をあたえて、他者の沈黙へむけて送り届けることではないでしょうか」 (P21)
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