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2014年3月25日 (火)

「そこに当事者としての立ち位置を取り戻したものがきっと、つぎの時代をつくるのだ」

今回も続き。
「大きすぎるシステム」から「小さいもの」へ、の流れについて。

当事者。
最近、本を読んでいたら、たまたまだけど「当事者」という言葉を使った文章をいくつか見かけた。

その言葉から考えてみたい。

作家の高村薫さん
『日本人の度量』から。東日本大震災を受けての言葉。

あるいは、日本の場合は、みんなが当事者になり得ると思うのがいちばんの近道ではないでしょうか。ここだけは安全などというところは、どこにもないからです。あすは我が身と思っていれば、他人事にはならないのではないでしょうか」 (P90)

哲学者の鷲田清一さん。同じく『日本人の度量』から。

「今大切なことはデリベレーション=熟議ということではないでしょうか。みんながさっと答えを出すのでなくて、あるいは感情的に反論するのではなく、みんなが自分が当事者だと思って、政治のことも、地域社会のことも、異なる意見があって当然だから、議論を繰り返し繰り返し行って、みんなが納得して判断を行う、というのが政治においては大事なのではないでしょうか」 (P154)

そして、佐々木尚俊さんの言葉。本のタイトルにも「当事者」が入っている著書『「当事者」の時代』から。

「それでも闘いつづけるしかない。そこに当事者としての立ち位置を取り戻したものがきっと、つぎの時代をつくるのだ。これは負け戦必至だが、負け戦であっても闘うことにのみ意味がある」 (P463)

システムが大きくなりすぎて、今は、みんなが「当事者」ではなくなっているということ。

NPO法人「地域再生機構」の平野彰秀さんは、朝日新聞(2012年5月29日)で、まさにそのことを書いている。


「高度化する現代社会は巨大なシステムが複雑に絡みあい、自分の生活がどう成り立っているのか、みえなくなっています」

「私たちはシステムに自動的に組み込まれてしまうから、管理・運営への責任感や主体性は当然育まれません。平時は『誰か』に全くのお任せだし、問題が起きると『誰か』に文句をいう。文句をいって溜飲を下げたり、不安を紛らわしたりしかできない人が大多数の社会は危うい」

宮台真司さん
がよくいう次の言葉も同じことである。『原発をどうするか、みんなで決める国民投票へ向けて』から。

「〈任せて文句をいう社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ!」 (P56)

これからは、個々が「当事者」として、引き受け、考え、熟議する。そのためにも、大きなシステムではなく、小さな共同体のようなものの中で、なるべく自分が「当事者」になれる状況を増やしていくことが必要となってくるのだろう。

さらに興味深い指摘も。文学について。

作家の高橋源一郎さん東京新聞夕刊(3月6日)から。

「すごく簡単に定義すると、文学って遠く離れたものと、今ここにあるものとを結びつける行為。物理的な距離だけじゃない。自分とは関係ないように思える死でも、自分のよく知る死と共通する部分がある。そうした寄り添う回路を新たにつくり出すことができるんです」

実は既に自分も「当事者」だったりするのである。ただ、気付いていないだけだったり、思いが至っていなかったりするだけ。

自分とは関係ないと思っているものから「共通性」をあぶり出し、自分も「当事者」だと気づかせるもの。それが文学だという指摘である。

なるほどである。

きっと文学だけでない、ジャーナリズムや、あらゆるクリエイティブも本来その役割を果たさなければいけないのだろう。

まさに「当事者」の時代には、メディアの役割もより問われる。

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