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2014年3月26日 (水)

「システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです」

 「大きすぎるシステム」。
システムの暴走については、例えばアメリカ映画の世界では『2001年宇宙の旅』をはじめ、最近では、リブートされた『ロボコップ』、『スノー・ピアス』など、ずっと映画のテーマになっている。

日本の映画やドラマでは、あまり思いつかない。

一方、村上春樹さんの小説は、人間の尊厳より「システム」が優先される社会へのとまどいをずっと描いている。だから世界中で受け入れられているのだろう。

その村上春樹さんの言葉。エルサレム賞受賞のあいさつから。『雑文集』より。

「それは『システム』と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を獲るべきはずのものです。しかしあるきにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。」 (P78)

「システムに我々を利用させていけません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです」 (P80)

社会学者の宮台真司さんは、ビデオニュース・ドットコム(2013年10月19日放送)で「巨大化するシステム」について次のように説明していた。

「もともと都市化というのはそういうもの。
都市の利便性というのは、もともと僕たちがより幸せで便利な生活を送るために作り上げていくもの。そのうちに都市システムが巨大になると、都市システムを維持・運営していくための、ある種のコマ、リレースイッチとして各人が存在するように変わっていきます」 (パート2 20分30秒)

思想家の内田樹さんは、著書『内田樹による内田樹』で、個人とシステム(経済)の逆転について次のように書く。

「経済活動はもともと人間が社会的成熟の装置として創り出したものです。経済活動に奉仕するために人間が存在するのではありません。逆です。人間が成熟するための装置として経済活動が存在する。この順逆はどんなことがあっても取り違えてはならないと思います」 (P292)

精神科の斎藤環さん毎日新聞夕刊(2月20日)から。

「人々は自ら所有する中間集団(省庁、自治体、企業などの組織)の利益を最優先するあまり、全体的な国家の安全がなおざりになるという日本的体質の最悪の部分が、原発事故では一気にと呈したことになる」

結局、個人の暮らしより、システムが優先される背景には、巨大化したシステムにぶらさがったステークホルダーたちの思惑がある。映画『スノー・ピアサー』や『ロボコップ』では、それがちゃんと描かれている。

それは、戦前の「國體護持」の時代から、ずっと続いているものなのだろう。

例えば、スポーツ。サッカーの世界でも同じ。元日本代表監督のオシムさんは、次のように指摘している。『オシムの言葉 増補版』(著・木村元彦)より。

「例えば国家のシステム、ルール、制度にしても同じだ。これしやダメだ、あれしちゃダメだと人をかんじがらめに縛るだけだろう。システムは、もっとできるはずの選手から自由を奪う。システムが選手をつくるんじゃなくて、選手がシステムを作っていくべきだと考えている」 (P139)

「大切なことは、まずどういう選手がいるか把握すること。個性を活かすシステムでなければ意味がない。システムが人間の上に君臨することは許されないのだ」 P240)

2013年5月30日のブログを読み返してみたら、ここでもほとんど同じ問題を指摘する言葉を並べていた。

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