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2014年3月 6日 (木)

「周りと同じ考えで無事でいられるというのではなく、もっと自分自身で言葉を選び考え、決して他人の言葉が自分の言葉と同じと思ってはいけない」

また「言葉」について考えてみたい。

今年2月21日のブログで、石牟礼道子さんの次の言葉を紹介した。それを改めて。(森達也さん『クラウド 増殖する悪意』から)

「昔の言葉は織物のように生地目があって、触れば指先で感じることができたのに、今の言葉は包装紙のようにガサガサとうるさくて生地目がないの」 (P24)

ここで石牟礼さんは、「言葉」を「織物」に例えている。

そして、きのうドキュメンタリー映画『ドストエフスキーと愛に生きる』を観た。ドイツ在住の84歳の女性翻訳家を追った作品。そのスヴェトラーナ・ガイヤーさんは、映画の中で、ドストエフスキーの作品の翻訳について、次のように語っていた。

「汲めども尽きぬ言葉の織物。すでに訳したことがあっても、汲み尽くせない。最高の価値ある文章である証拠。それを読みとらねば」

「洗濯すると繊維は方向性を失う。糸の方向をもう一度整えなければならない。文章(テクスト)も織物(テクスティル)も同じこと」


上記の石牟礼さんの言葉と重なるようで、非常に興味深い。

そもそも生地を表す「テクスティル」と、文章を表す「テクスト」は同じラテン語の「織る」が語源ということ。一つ一つ糸が織り重なり合って生地ができるように、文学もまた一つ一つによる言葉の織物だと、スヴェトラーナは語っている。非常に良い表現だと思った。

なぜ日本という社会では、石牟礼さんが言うような「生地目のない」言葉があふれてしまうのか。

こんな指摘を見つけた。

ジャーナリストの佐々木尚俊さんは、著書『「当事者」の時代』で、日本で「曖昧な言葉」が広まる理由について次のよう書いている。

「日本には外部に対して閉ざされた共同体が非常の多い。農村や企業、さらには大学の体育会やサークル活動だって閉鎖的になりやすい。そういう閉鎖的な共同体では、わざわざ言葉をつかなくてもなんとなくの空気感で意志が伝えられるようになる」


「そしてこの閉鎖的共同体から派生的に生まれてきたハイコンテキストは、長い歴史の中で日本社会の多くの場所に浸透している」 (P68)

「この共同体の構成員たちは、『同じ空気感、同じコンテキストを共有している』という感覚だけに従って、強い紐帯で結ばれている」 (P72)

ハイコンテキストとローテンキスト。

この言葉について、佐々木さんは、次のように説明している。

「何かを語るときに、明瞭な口に出された言葉のやりとりだけで成り立つのがローコンテキスト。これに対して、口に出している言葉の背景にあるコンテキストまで考慮に入れないと、コミュニケーションが成り立たないのがハイコンテキストだ」

限られた社会で暮らしていけば良い時代は、言葉ではなく、空気感でやっていことも可能だったのだろう。言ってみれば、生地目がないような言葉でもやりとりできる社会。

でも、これからもそうなのだろうか。いろんな価値観を持った人が集まる多様性を持った社会、またそれこそグローバルな世界、そんな中で人と付き合っていくためには、ハイコンテキストなやり方では通用しないんだと思う。明瞭な言葉でのやりとり、織目、生地目のはっきりした言葉でのやりとりが必要とされるんだと思う。

その言葉の問題については、上記の映画『ドストエフスキーと愛に生きる』についてのトークイベント(2月21日)でも話題になっている。

まずは、作家の森達也さん。

「政治家は言葉が大切な生き物なのに、軽くなっている。言葉をあまり大切にしなくなってきている。日本人は言葉を文章として残していく、アーカイヴすることがもともと苦手だったが、戦後ますます深刻になってきている。文章に対しての緊張感がなく、しゃべり言葉によって意識が形成されているから。我々はもっと言葉を考えなければならない」

またこのイベントで、映画翻訳家の太田直子さんも次のように語る。

「言葉は人を傷つけることも出来るし、人を救うことも出来る。多くの人が一斉に同じことを言う社会は気持ち悪い。周りと同じ考えで無事でいられるというのではなく、もっと自分自身で言葉を選び考え、決して他人の言葉が自分の言葉と同じと思ってはいけない。だからこそ言葉を意識的に考え生きていければならない」

「空気感」「同調圧力」に流されて、言葉をないがしろにするのではなく、各々が、ひとつひとつ織物のように編んで言葉を紡いでいく。その言葉を持って、多様な人とコミュニケーションをとっていくということが、これまで以上に求められていく時代に入ったのではないか。

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