「でも、勝つことを至上の目的としてしまうような人を自分たちの代表として選びたくないからこそ、私たちは選挙を始めたはずなのです」
話題は変わります。政治と勝利至上主義について。
きのうの朝日新聞(3月27日)に、大阪市長に再選されたばかりの橋下徹氏のインタビューが掲載されていた。
「僕の意見では直接民主制が民主主義の原則だ。議会は直接民主制の補完的な役割で、直接民主制が後に控えている議会は直接民主制に送るための一つのスクリーニング(ふるい分け)機能。議会が最終判断の場ではない」
読んでいて、やはり違和感が強い。
イエスかノーによる首長選や住民投票など、勝者と敗者、白と黒がはっきりする選挙制度によって選ばれた者や事柄が、様々な立場の人が集まった議会で話し合って決められたことよりも優先される。どうも彼は、そういう考えのようである。
そしてその勝者は、「民意」を背景に絶対的な決定権を持つ。とも考える。
橋下徹氏は、かつての朝日新聞(2012年2月12日)で、次の言葉を残している。
「有権者が選んだ人間に決定権を与える。それが選挙だと思います」
「ある種の白紙委任なんですよ」
この考えは、総理大臣である安倍晋三氏の次の発言にも通じている。衆議院予算委員会(2014年2月4日)での憲法96条改正問題で。
「たった3分の1の国会議員が反対することで国民投票の機会を奪っている」
たった3分の1…。
選挙で少しでも多くの票を得た勝者の前では、3分の1といえども「たった」であり、意味がない。勝者のみが決定権を持つ。選挙の結果が全てなのである。
つまり、勝利至上主義。
このブログでは、以前、サッカーや野球といったスポーツなど、いろんな分野での「結果がすべて」というような「勝利至上主義」についての言葉を紹介して、それについて考えた。(2013年5月30日のブログなど)
その勝利至上主義という考え方が、政治の世界、選挙にまでどうも広がっている。
かつてスポーツの勝利至上主義を考えた際にも同じことを書いたが、もちろん選挙は勝つことが大事である。だからといって、負けたからといって、その候補者の考え方や支持者たちがまったく意味がないということにはならないはず。
その政治の世界の勝利至上主義について考えるようになったのは、先週、えにし屋代表の清水義晴さんの著書『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』を読んだから。
清水さんは、かつて新潟市長選挙に立候補した知人を手伝った際の経験について、次のように書いている。
「正直言って、私だって『選挙は負けたらなんにもならない』とチラッと思わないでもありません。だれにも負けないほど、心底この候補を当選させたいという、熱意と覚悟で選挙に向かっているのですから。でも、勝つことを至上の目的としてしまうような人を自分たちの代表として選びたくないからこそ、私たちは選挙を始めたはずなのです」 (P228)
「それに、選挙を始めると、相手の候補と戦っているような錯覚に陥りますが、じつは私たちが向かうべき相手とは、選挙民(=市民)です。べつに他の候補が『敵』なわけでもなんでもないはずです」 (P228)
「『選挙は闘いではなく、仲間作りの場にしよう。勝敗というのがあるとするなら、候補者の考えに共感する仲間を、どちらかがより多くつくったかを競いあおう』。仲間にもそれを語り、自分もまた行動で示していきたいと思っていました」 (P229)
最近、小泉時代の「刺客騒動」などもあり、すっかり選挙というのは、自分の考え方にとっての「味方」と「敵」がいて、そして勝つか負けるか、敵を倒すか倒されるか、という論法で考えるようになっていた部分は確かにある。
しかし、本来、清水さんの言うように、選挙とは「勝つこと」はあくまでも結果であり、本来、できるだけ同じ考え、志を持った人を増やしていくということだったはず。
そして選挙に勝った方にも、負けた側の支持者たちに対する責任を背負うことで、彼らとの熟議を重ねる政治が求められる。そうすれば、勝利至上主義による横暴・暴走は自制されるし、「負けた側にも意味がある」という考えにもなるのではないか。
上記の清水義晴さんの指摘は、社会学者の開沼博さんの次の言葉にも重なる。著書『フクシマの正義』より。
「今求められているのは、短絡的に作られた『敵』でも、薄っぺらい『希望』でもない。なぜ自分が、自分たちの生きる社会が、これまでのその『悪』とされるものを生み出し、温存してきてしまったのか、そして、これからいかに自分の中の『悪』と向き合うのか、冷静に真摯に考えることに他ならない。『変わる変わる詐欺』を繰り返さないために」 (P39)
このことは、政治家はもちろん、彼らを選び、支持する有権者にこそ当てはまることだと思う。
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