「日本はいつのころからか、『道化』の中にばかりスターを求めるような風潮ができてしまっている」
今回は、ちょっと話題を変えて、「笑い」についての言葉を並べてみたい。
少し前、ラジオを聴いていたら爆笑問題の田中裕二さんが、今のお笑い芸人について次のように語っていた。TBSラジオ『久米宏ラジオなんですけど』(2月22日放送)より。
「今のお笑い芸人いるじゃないですか。若手とかも。ものすごい才能というか、レベルはとんでもなく上がっている。もちろん多いから。ジャンルとしてお笑いのすそ野が広がっている。今や人気ですから。だから僕らが子供のころ見ていたお笑い番組やバラエティより、面白さでは上回っていると思う」 (午後1時20分ごろ)
今のお笑いのレベルは高い。これは、よく耳にする指摘である。層も厚くなっているし、バラエティ番組も増えていて、確かにそうなんだろう。
でも、どこか「本当だろうか」「以前の方がドキドキした」という思いも残る。この思いについて考えてみたい。
イラストレーターの山藤章二さん。毎日新聞夕刊(3月28日)で次のように語っている。
「自分の想定内のお笑いが好まれ、想定内のオチが好まれる。想定内のお笑いを逸脱するともう、処理できない」
「予定調和で成立している番組で、誰か一人が異論を言うとその場の空気が壊れるんですね。でもね、本当はそれが面白い。ひんしゅくを買う発言をあえてする度胸のある人がいなくなってしまった」
つまり。
既成の概念を崩して、新しい価値観を作ろうという「前衛的」なお笑いが見られないのではないか。層の厚さ、人気などによるレベル向上が、「前衛」には向かわず、「予定調和」の温存に働いているということなのかもしれない。
誰かの言葉かは失念したが、以前、「最近のお笑いには批判精神がない」というコメントを目にしたことがある。残念ながら自分のメモには残っていなかった…。
その一方で、「お笑い」の社会的立場はどんどん高くなっていく。テレビの中では、朝から深夜まで、お笑いタレントが、政治を語り、生活を語り、教育を語り、文学を語り、映画を語り…、と何でも語る。しかかも「ネタ」というより、ひとつの「権威」のように語っている。
なぜ彼らはそんなに「偉く」なったのか。流通しているからなのか、儲かっているからなのか、その理由はよくわからない。
もう少し「お笑い」に関する言葉を。
まずは、糸井重里さん。著書『キャッチボール』から。
「日本はいつのころからか、『道化』の中にばかりスターを求めるような風潮ができてしまっている。道化は、確かに求められてもいいけれど、みんなが道化を目指したり、道化を評価しなくてもいい」 (P7)
北野武さん。雑誌『sight』(2013年秋号)より。
「オレは反権力というよりもね、シェイクスピアとかさ、いろなところでピエロ出てくるじゃん。その程度だと思うよ。ピエロはピエロだからということで、悪口言えるじゃない。その程度だと思うよ。権力があって、そのそばにくっついて悪口がんがん言って、自分は罰せられない程度っていう」 (P152)
その通りだと思う。「道化」は道化としての役割がある。「トリックスター」としての役割が。なにの、それをいつの間にか本当の「スター」としてあがめてしまうのが最近の風潮なのだろう。
元吉本興業の木村政雄さん。著書『「正しいオヤジ」になる方法』より。
「確かにメジャーになったことは素晴らしいことなんですが、でもどこかに『いえいえ所詮、お笑いのやることですから』という謙虚さのようなものを持っていないといけないと思うんですよ」 (P39)
コラムニストの小田嶋隆さん。著書『ポエムに万歳』より。
「人間は、そんなに笑う必要があるのか、ということだ。笑いは、スパイスに過ぎない。主食ではない」 (P187)
そもそも所詮、「笑い」であり、「お笑い」であるのだ。
「所詮」だからこそ、気軽に、予定調和を崩したり、新しい価値観をさぐる役割ができる面もあるのではないか。メインでなく、スパイスだからこそ、失敗を恐れず、チャレンジしてみることができる。
話は飛ぶかもしれないが、以前のブログ(3月14日)で紹介した「空気とムラのガバナンス」という言葉を思い出した。
ビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(3月8日放送)での、ジャーナリストの船橋洋一さんの次の言葉をもう一度。
「異論をあえて唱えることをダサい。KYなんだよ、読めないと。空気を読めるやつばかりだから、役に立たない。村と空気のガバナンスをやっているから、どうしても危機には弱い」 (パート①29分ごろ)
もっと「お笑い」が既成の価値観に対して、異論を唱え、水を差すことをやってほしい。そうすれば、社会そのものから「異論を唱えることはダサい」という風潮を少しでも減らせるのではないか。
また、そこから新しい価値観が生まれるかもしれないという期待が発生し、少しでも閉塞感を打破できるかもしれない。
そういうトリックスターとしての役割を「お笑い」が失っていることは、きっと「空気とムラのガバナンス」を温存することにどこかでつながっていると思う。
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