「特に新しい笑いの世界を創造していく者は、いつも世の中を少し斜めからじっと観察し、思考しているような者たちである」
前回のブログの「お笑い」についての続き。
前回では、元フジテレビの佐藤義和さんの「新しいお笑いをつくろうという気概のあるバラエティ番組がなくなった」という言葉を紹介した。
これに付け加えておきたいが、これはお笑いタレントだけの問題ではない。当然ながら、当時に番組制作者たちの側にも「新しい価値観」を創り出そうという気概は失われているということでもある。
前回同様、佐藤義和さんの著書『バラエティ番組がなくなる日』より。
「このお笑いオタクのタレントたちは、テレビマンたちにとって、非常に使い勝手がいい。活躍の場所を与え、そこそこのギャラを与えていれば、静かにしかし喜々として自分の仕事をこなす。研究熱心だから、作品のクオリティも高く、とくに不平や文句をいわない」 (P126)
そのテレビマンたちについて、次のように指摘する。
「テレビ局、とくにキー局は、相変わらず超人気企業だから、いわゆる高学歴の若者がほとんどだ。彼らは、飲み込みも早いし、記憶力もある」 (P158)
「このタイプのディレクターは、既存の権威を迷うことなく尊重する傾向が強い。ビック3を頂点としたお笑いタレントのヒエラルキーをそのまま受け入れ、重視する」 (P159)
頭もいい、飲み込みもいい…、つまりスペックは高性能だけど、ただそのまま現状を受け入れてしまう体質を持っている。
お笑いタレントと、バラエティ制作者は、まったく同じような状況となっている。
「バラエティ番組の制作者や出演者が、へらへらした薄っぺらい存在であったらならば、新しい価値観や発見を示すことはできない。特に新しい笑いの世界を創造していく者は、いつも世の中を少し斜めからじっと観察し、思考しているような者たちである」 (P189)
「社会風刺」や「批判」を試みる番組がどんどんなくなっている背景には、新しいことをチャレンジできる場や余裕がなくなっていることもあるのだろう。実際に、「辺境」としての深夜番組や雑誌はどんどん減っている。(2013年5月2日のブログ)
こうした傾向は、バラエティ番組だけではない。情報番組や報道番組などでも同じことが起きている。
毎日新聞夕刊(4月2日)の『テレビから消えた辛口コメンテーター』という特集記事で経済アナリストの森永卓郎さん。
「何かを起こしそうな人はトレンドではない。お笑いならタモリさん、明石家さんまさん、ビートたけしさん。キャスターなら久米宏さん、鳥越俊太郎さん、亡くなった筑紫哲也さん」
まあ、年末年始になれば、どこかのチャンネルはたけしさんや、さんまさんばかり使っているので、上の指摘がそのまま当てはまるとも思えない。
ただ、権威を面白がって風刺したり、ちゃんと「批判」をしたりする人がテレビから消えている傾向にあるのは事実だと思う。そこには面倒くさいことを避けるというコンプライアンス的な風潮もある。生番組が減っているというのも、同じことなのだろう。
ジャーナリストの田原総一朗さんは、上記の記事の中で次のように指摘している。
「世の中が大きく変わってきた。いわゆる『批判』に国民が関心を示さなくなっている。景気のいい時代は批判に関心を持つだけのゆとりがあった。そのゆとりが今はない」
お笑いだけでなく、社会的に「批判」や「風刺」といった「水を差す」行為がやりにくくなっているのは確かだと思う。(2013年9月13日のブログ)
でもでも、である。
やっぱり報道番組やお笑いから、批判精神が消えたらお終いなんだと思う。
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森永卓郎という男が厄介なのは、無責任な言いっぱなしが目に余ることだ。
かつて声高に小泉政権を罵倒し、自称「経済アナリスト」の立場として「対ドル円相場が50円台」「株価が5000円台」となる不況の到来を唱えたが、かすりもしなかった。
しかもそれに何の反省もせずに、未だに大嘘を垂れ流している。
投稿: ふよた | 2014年5月14日 (水) 15時07分