「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
今回も、「目の前」についての続き。
きのうのブログ(6月23日)では、「市民」という概念について考えた。その追加として、もう少し。
新聞に折り込み広告と一緒に挟まれていた情報誌『定年時代』(6月下旬号)を読んでいたら、カメラマンの石川文洋さんの次の言葉が目に入った。
「戦争は市民を犠牲にする」
もしも、国家が戦争に突っ込んでいった時は、「市民」から犠牲になっていく、という戦場カメラマンによる指摘である。
前回のブログでも「國體護持」ということに触れたが、国家というものは自らの「システム・組織」を優先して温存する傾向にあるため、個人である「市民」の方が先に犠牲になる。(2013年12月7日のブログ )
そして問題になのは、戦争が始まってからだけでない。その前も国家は「市民」に対して、様々な制限をくわえようとする。
作家の保阪正康さん。著書『そして、メディアは日本を戦争に導いた』で次のように書いている。
「市民的権利に制限を加えるよう主張する政治家や政治勢力は、必ず偏狭な国家主義、一面的な民族主義、口先だけの愛国主義を唱え続ける。そういう政治目標を確立するには、なによりも市民的権利に制限を加えることのみが最も手短に行われる手法だからである」 (P220)
そして、その傾向は、今の安倍政権が導こうとしている国家像にも感じられる。
精神科医の斎藤環さんの言葉。自民党が打ち出した改憲案について。毎日新聞(3月7日)より。
「改憲案ではしきりに『公の秩序』が強調される。福祉ではなく秩序である。しかし、個人の活動を抑圧する『公』は『公』ではない。それは『世間』そのものだ」
まさに今の安倍政権が目指そうとしている社会では、個人が「目の前」と向き合い、自ら考える「市民」の行動を抑制し、その向こうにある「世間」、すなわち「システム・組織」「國體」を優先していこうというニオイが感じられる。
そして実際の戦争となった場合、市民が犠牲となる。作家の森達也さんの言葉。著著『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』より。
「国家によって救われた命は確かにある。でも賭けてもいいけど、国家によって殺された命の方がはるかに多い」 (P312)
「特に国家をめぐる幻想は人に害を為す。多くの人を苦しめる。多くの命を犠牲にする」 (P312)
実際に太平洋戦争でも、そうなった。何百万人もの市民が犠牲になり、「國體」と呼ばれた「システム・組織」は生き残る。
社会学者の白井聡さんの指摘。著書『永続敗戦論』より。
「『貧しい日本』が帰ってくるときに、一体何が露わなかたちで姿を現すのか。それは、永続敗戦を経ても、それを否認することによって生き残ってきたもの、すなわち『国体』であるほかないだろう。われわれは、ポツダム宣言受諾に際して戦中の指導者層が譲らなかった条件が、『国体の護持』であったことをいまいちど思い起こさなければならない」 (P163)
「われわれは少なくとも、歴史を振り返ることによって『国体護持』の意味を理解することはできる。『国体』は、第二次世界大戦における敗戦を乗り越えた、言い換えれば、敗戦に勝利した。永続敗戦という代償を払って」 (P167)
そして、白井聡さんは、「國體」について次のように指摘する。
「国体とは、一切の革新を拒否することにほかならない」 (P182)
つまりは、社会を変えさせないようにするものの正体こそ、「國體」であり、「システム・組織」なのである。
ここ何回かのブログで考えてきた「目の前」と向き合うこと。そもそものきっかけは、「変える」について考えることだった。(6月12日のブログ )社会を少しでも良い方に変えるためには、日常生活やルーティンを繰り返し、その中で「目の前」に現れるものと向き合い、少しずつ変えていくことが大事なのである、という流れ。
この「変える」や「更新」ということについては、このブログでは何度も取り上げてきた。(2011年11月24日 など)(「更新・チェンジ」 )
結局、社会というものは、少しずつ変えたり、更新したり、修正したりを繰り返していかないと、やがて我々個人が、息苦しくなってしまうものなのだと思う。
だから「目の前」と向き合い、考える必要がある。その「変化」は、何かによって強制的に行われるものではない。個人、すなわち「市民」が少しずつ変えていくしかない。それが、結局は社会を戦争というもの向かうことから防ぎ、自らが「犠牲」にならないようにすることなのではないか。
最後に、上記の『永続敗戦論』で紹介されていたマハトマ・ガンジーの言葉を載せておきたい。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」 (P201)
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ガンジーのこの言葉、覚えておきたい。
投稿: ノムラマサカツ | 2015年4月 2日 (木) 09時21分