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2014年6月23日 (月)

「『あの日』を経てきた私たちが、今度こそ『市民』たりうるのか、依然として『ムラ人』にとどまるのか」

今回も、「目の前」という概念について。(6月13日のブログ以降)

「目の前」のものとちゃんと向き合うこと。これは、日常生活を大切にすること。そして「当事者」であること。また「ローカル」「地域」と向き合うこと。それらは実はつながっているのではないか。という話の転がし方をしてきた。

日常生活、
当事者、ローカルときて、もうひとつ「市民」という概念も、実は「目の前のものとちゃんと向き合うこと」と同じなのではないかと思えてきた。

そこで、今回は、「市民」ということについて考えられる言葉を並べてみたい。

まず、ジャーナリストの神保哲生さんの言葉。毎日新聞(4月15日)より。

「市民の立場で『当時者の視点』を持ちながら、多くの人を納得させる『公共性』を持ち合わせることを意識し、情報発信を心がけてほしい」

つまり、「市民」ということは、日常生活を営む地域の当事者ということである。そして「当事者の視点」とは、市民として「目の前」で起きることを見つめるということである。


前回のブログ(6月22日)でも、日本の人びとには、「目の前」で起きることよりも、その向こうにある「システム・組織」を温存すること(國體護持)を優先する風潮があることに触れた。

精神科医の斎藤環さんは、「市民」と「ムラ人」という言い方をしている。
毎日新聞(3月7日)より。

「『あの日』を経てきた私たちが、今度こそ『市民』たりうるのか、依然として『ムラ人』にとどまるのか」

おそらく
「目の前」を大事にする人を「市民」、「システム・組織」を優先する人を「ムラ人」と考えればいいのだと思う。

そして、あの日、東日本大震災が発生した2011年3月11日、私たちは確かに「変われる」と思ったのだが…。

社会学者の宮台真司さんは、最近の企業経営者について、次のように話す。 ビデオニュースドットコム『働き方を変えれば日本は変わる』(1月18日放送)より。

「市民でない企業人なんて本当はありえませんよ。今まで許されていたのも不思議だけど」 (パート2 35分ごろ)

この指摘は、前回のブログ(6月22日)で紹介した城南信用金庫理事長の吉原毅さんの主張に通じる。

社会学者の山下祐介さん
『しなやかな日本列島のつくりかた』(著・藻谷浩介)の中で次のように語る。

「今、特に都会で働いている人たちは、人生の多くが『暮らし』ではなく『労働』になっています。その労働というのも、昔は生活と直結するものだったのが、今はなんのために働いていて、誰にその糧が回っているのかよく分からない。がむしゃらに働き、ご飯は外食、結構な家賃と光熱費を払いながら、家に帰ったら寝るだけ。もともとは普通に暮らしていくためにやっていたはずのことが、いつのまにか、もっと大きなシステムの中の一部分に組み込まれてしまっているのです」 (P53)

日常生活のために働くのではなく、大きなシステムのために働く。ここにも「國體護持」の縮図が垣間見える。

若手企業家として知られる駒崎弘樹さん『1984フクシマに生まれて』(著・大野更紗&開沼博)で次のように語る。

「今僕が考えているのは、企業社会の超長時間労働にロックオンされている男性リソースをそこからひっぺがして、まずは家族に、次に地域や社会にコミットさせること」 (P137)

これからの日本社会は、企業という大きな「システム・組織」に取り込まれた人々を、いかに「日常生活」「地域」に取り戻すかにかかっているのだと思う。これまで何度も言われていることだけど。

一方で、そうした新しい社会の在り方を問い、訴えかけるべき存在の一つがジャーナリズム。でも、そのジャーナリズムを行うべきマス・メディアも、大きな企業である以上、同じ問題を抱えている。

作家の保阪正康さん著書『そして、メディアは日本を戦争に導いた』の中で、次のような表現で語っている。

「今の時代、ジャーナリズムはシリビアン(市民)になってほしいけど、それには大変な努力と覚悟が必要です。国家と個人が対立したとき、思い切って抵抗するか、それとも亡命を選ぶかという厳しい選択を迫られることはこれからだってある。今のジャーナリストにそこまでの覚悟があるでしょうか」 (P190)

今のマス・メディアには覚悟がないのか、結局、地域より中央、政治より政局、生活より経済…など、つまり「市民」の問題より、「ムラ人」の問題を優先して取り上げる。

そうやってメディアが、政局、株価、スキャンダル、オリンピック、W杯など、日常生活とかけ離れたものを必要以上に大きく騒ぐことで、我々の視線はどうしてもそちらに向いてしまう。そして、「市民であること」「目の前」というものを忘れていく…。

作家の重松清さん『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』(著・中島岳志)から。

「その時『ニッポンは一つだ』みたいな、一番簡単なわかりやすさで当事者感を持つのは、ちょっと怖いですよね。オリンピックじゃないけど、高揚感を簡単につくり出せるから。そこに安易に寄り添うのは自戒したいと思っています」 (P199)

市民の立場、生活者の視点、目の前と向き合うことが求められているのは、当然だが、企業やジャーナリズムだけではない。個人も含め、日本社会のあらゆる場所で、それが求められているのだと思う。

最後に、作家・角田光代さん小説『彼女のなかの彼女』。この小説の主人公は、自堕落な生活を送る女性小説家。その恋人である仙太郎が彼女に対して、口にしたセリフを載せておきたい。

「でもぼくはさ、そういう人に、だれかの心に届くようなものが書けると思わない。生活を放棄している人に、人の営みが書けるとは思わない」 (P208)





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