「多元的な環境がいい男を作るんです」
改めて。サッカーのW杯ブラジル大会は、ドイツが4度目の優勝を果たして終わった。
今大会でのドイツ・チームの強さについては、様々なメディアが分析している。ここでは「多様性」についての言葉をピックアップしてみたい。
元日本代表監督のイビチャ・オシム氏。スポニチアネックス(7月15日)に今大会の総括を載せている。
「今回のドイツは『多民族性』がある。東欧系やトルコ系、アフリカ系の選手が入り、従来のドイツにはなかった要素が加わる。ある意味でドイツ人以上にドイツ人らしく成長し、ドイツ代表の新しい姿を象徴している。このような多民族性は差別が強い社会では不可能だ。ドイツの移民政策が安定し、社会が成熟して可能になった」
朝日新聞デジタル(7月15日)では、河野正樹記者と吉田純哉記者の連名で記事を書いている。その中から。
「異なる文化的背景、身体的特徴を備えた移民の子どもたちが入ることで、ドイツ持ち前の粘り強さに、これまでになかった個性が加わった」
「東西統一と、その後の移民との融合。14年W杯は、社会の変化をも力にした新生ドイツの勝利だった」
こうした記事を読むと、やはりサッカーの強さはその国の社会と連動していることが分かる。(6月11日ブログ)
優勝したドイツのメルケル首相は、初戦のポルトガル戦を現地で応援した時、次のように語っている。ヤフーニュース(7月9日)より。
「サッカーのドイツ代表チームは私たちの国のロールモデル。エジル選手が国のヒーローとして祝福されることは素晴らしいことよ」
また、98年のフランス優勝以来、多民族・多様性の受け入れに舵を切り、その融合・寛容性を積極的に進めてきたチームがW杯を制したり、活躍している。やはり今のサッカーの強さと「多様性」は無関係ではない。(7月7日のブログなど)
そんな多様性の大切さは、歴史からもみてとれる。
自分たちの文化に、異なるものからの刺激を取り入れることで、新しい価値観を生んだり、閉塞感を破ることの必要性は、今の時代ことだけではない。
歴史上でも、かなり豊かで活気があったという「古代ローマ時代」。その時代の男たちについてのマンガ『テルマエ・ロマエ』を描く漫画家のヤマザキマリさんの話も興味深かった。日テレBS『久米書店』(7月6日放送)より。
「古代ローマ人は、色んな属種の、色んな考え方の、色んな生き方の、色んな宗教の、人たちをどんどん包括してく。全く自分たちと違う考え方や生き方をしているということに対して、ひるむんじゃなくて、好奇心でそれを求めていくという考え方の方が強かった」
「自分たちが今まで知らなかったことだから、それは無いものにしようとか、それいらないと排除するのではない。取り込もうという意識の方が強かった。そういう間口の広い感じの男性は自分の周りにはいない」
「変わっているものほど、自分を刺激してくれて、変わっているものほど、良い触発を自分にくれるもの、ととらえていた」
ヤマザキさんは、このことを今の日本社会、日本人には足りない要素として語っている。
「今の日本人は、『あるある』という感覚を求めたり、自分の身の覚えのあるものを正当化してくれることを求める。そうじゃなくて、違うものを出してみたところで、何も起きやしないから、という大胆不敵な展開力を見てみたい」
多様性に寛容になるということは、自分に自信があるということでもある。自分に自信がない社会、組織ほど、異なるものを排除しようとする。
「『ロマンティック』とは、『劇的に生きる』こと。あと何があっても動じない。全部それを取り込んでいこう。『自分は大丈夫』という筋の通った自分自身に対する自信を感じさせる時代でもある」
番組の最後の方で、こんな言葉を紹介していた。
「多元的な環境がいい男を作るんです」
ここの「男」には、「サッカー選手」だけでなく、いろんな立場の人に当てはめられる。
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