「『永続敗戦』という概念は、第一の意味は敗戦をごまかすこと、敗戦の否認」
ここ数日は、日本サッカーの「“負けること”を正面から見つめない」という風潮について考えている。
実は、今日の話が「本題」。
3回前のブログ(7月9日)では、テレビ朝日による次のキャッチコピーを取り上げ、そこから話を転がしてみた。
「絶対に負けられない戦いが、そこにはある」
そのあと、ジャーナリストの船橋洋一さんの、こんな言葉を思い出した。著書『原発敗戦』より。
「『絶対』は魔語である。『絶対』という言葉を使った瞬間からそれこそ『負け』なのである」 (P108)
これは「原発は絶対安全だ」としてきた「安全神話」を批判した言葉。
そして「絶対」をウタった原発も、日本サッカーも、負けてしまった。ともに惨敗と言ってもいいような形で。
しかし、原発についても誰も「負け」を認めようとしない。政治学者の岡田憲治さんの言葉。著書『ええ、政治ですが、それが何か?』より。
「この事態を招いたことに関して、電力会社においても、行政においても、政治家においても、一切、全く、何の責任をとらされていません。あたかも『1000年に一度の天災』のせいだと言わんばかりの放置ぶりです」 (P252)
確かに。
船橋洋一さんは、上記の著書『原発敗戦』で、次のように書いている。
「福島原発事故は日本の『第二の敗戦』だった」 (P20)
第二の敗戦…。つまり、あの第二次世界大戦のときと、同じことが繰り返されたことを指す。
ここでもうひとつ、サッカーについての言葉。サッカー解説者のセルジオ越後さんの指摘。著書『サッカー日本代表「史上最強」のウソ』より。
「協会は日本代表が勝って勝って、勝ち続けることが何よりも重要。そうすれば、人気を維持することにつながると信じているんだから。協会にとっては『強化』よりも『勝利』」 (P11)
まさに、これと同じことをしていたのが、太平洋戦争当時の日本の政府であり、軍部だった。その結果、最後まで「負け」を認めず、敗退を「転進」と呼び、全滅を「玉砕」と呼び、国民の人気・支持をつなぎとめようとした。
こうした「敗戦」と向き合おうとしない、「敗戦」を受け入れようとしない日本の構造・体質を、政治学者の白井聡さんは「永続敗戦」と呼んでいる。それは降伏したあとも永遠に続いていく。
その白井聡さんの指摘。TBSラジオ『久米宏ラジオなんですけど』(6月7日放送)より。
「玉音放送の文言を全部読んでみるとなかなか面白い。何言っているかよくわからない。漢文調で。あれは『負けました』というのを国民に伝えたわけですけど、ところが『負けた』『敗北』という言葉はない。ポツダム宣言受諾とは言っているけど、無条件降伏ということは言っていない。降伏とか敗北とか敗戦とか、負けということを表す言葉は周到に避けられている。8月15日のあの瞬間から、『敗戦』を『終戦』へと呼びかけるプロジェクトは起動していたということ」
「『永続敗戦』という概念は、第一の意味は敗戦をごまかすこと、敗戦の否認。一方で、アメリカに対しては、あの戦争に『負けたこと』を無制限に認めている。その代償行為として、国内やアジア対して、戦争の負けを誤魔化すことをずっと続ける、これが日本の戦後の国家権力の本質だと思う」
負けを認めず、負けたあともそれにちゃんと向き合わない。これこそが「永続敗戦」。
もうひとつ、白井さんの「永続敗戦」については、ジャーナリストの神保哲生さんの説明が分かりやすい。ビデオニュース・ドットコム『Nコメ』(7月5日放送)より。
「実は敗戦のレジームが続いているのだと。実際に負けたのに負けたことを直視しないようにしてくれたアメリカに、ずっと擦り寄ることによって、日本がある意味で戦前の体制をそのまま永続してきている。その末裔というか、息子とか孫とかが政官財の中にど~んと座っていて、ほとんど縁故でいろんなものが踏襲されていっているというシステムが続いている。彼らにとっては、対米隷属であり、敗戦レジームの維持こそが自分たちの権力の源泉の維持になるということ。我々が脱すべきなのは、そもそもこの敗戦レジームである。というのが白井さんの主張である」 (30分ごろ)
まったくもって、原発とも、サッカーとも同じ構造。「負け」を認めないことによって、原発ムラやサッカー協会も自分たちの体制や権益をいつまでも維持しようとする。
経済成長についてもそうだ。政府や財界は、決して、右肩下がりやマイナス成長というのを認めない。
久米宏さんの指摘。日テレBS『久米書店』(7月14日放送)より。
「ポルトガルとかスペインとかイギリスの歴史を見れば、国の力なり勢いは、それこそ上向きのときもあれば、下向きのときもあるってわかっている話。なのに、日本は成長率はいつまでもプラスではければいけないと言い続ける。政治家は特に。なんでプラスじゃなきゃいけないって私も不思議に思う。そんなこと続くはずないのだから」
きっと、政府や財界にとっては、マイナス成長は「負け」なんだろう。だから、認めない。経済が、マイナスだって、横向きだって、国民が楽しく、幸せに生きる国はあるのに。
一方、こうした「負け」を認めない体質は、市民・国民の側にもある。例えば、社会運動などでもそうだ。「負けることにタフになること」が求められる。(7月10日のブログ)
社会学者の宮台真司さんと、白井聡さんの対談。ビデオニュース・ドットコム『マル激トーク・オン・ディマンド』(7月5日放送)より。
宮台 「社会運動とかやっている人に申し上げたいんだけど、目標を達成できなかったからと言って、挫折感に浸るのはやめてほしい。脱原発運動であれ、反安倍の運動であれ、目標を達成できないということは、これから通常的な事態になります」
白井 「そもそも社会運動なり、市民運動なりはそういうもの。1勝1万敗どころじゃなくて、1勝100万敗ぐらいの話。社会運動をやる人が『負けたこと』に過剰に沈み込むことはないという話でしたけど、それと同時に、他方では『どうせ成果出てないじゃん』みたいなことを横から言うやつ、自分では何もしないのに。あれも黙ってほしい」 (パート2 54分ごろ)
こうした「負けること」を認めない風潮の原因は何なんだろう。作家の村上龍さんの言葉が印象深い。著書『賢者は幸福でなく信頼を選ぶ。』より。
「多くの人が『思考停止』に陥っている。シリアスな現実から目をそらし、希望的観測をまじえて将来を予測し、考えることから逃げる。その方法、生き方は、とても楽だ」
「わたしたちは、それについて考えることが面倒で苦痛なとき、とりあえず精神が楽になる道を選ぶ傾向がある。表面的なことだけが語られ、都合の悪い事実は覆い隠され、そこから学ばなければいけない過去の出来事については、できるだけ早く忘れようとする」 (P201)
結局は、「負けること」と認めないこと。向き合わないこと。逃げること。これは、思考停止なのである。思考停止のまま、忘れていき、同じことを繰り返す。全てはこのパターンなのである。
日本社会のあちこちに点在する「永続敗戦」の体質。どこで、このループから抜け出さないと、日本社会はどんどん沈んで行ってしまうのではないか…。同じ過ちを繰り返すのではないか…。そう思えてくる。
サッカーからはじまった話が、ここまで転がってきた。
« 「どうも日本人は、そういうミスやリスクのある要素を排除したいと考える傾向があるようだ。サッカーに限らず、人生においても、そういう傾向があるように思える」 | トップページ | 「多元的な環境がいい男を作るんです」 »
「★サッカーと「永続敗戦」と、」カテゴリの記事
- 「『永続敗戦』という概念は、第一の意味は敗戦をごまかすこと、敗戦の否認」(2014.07.15)
- 「どうも日本人は、そういうミスやリスクのある要素を排除したいと考える傾向があるようだ。サッカーに限らず、人生においても、そういう傾向があるように思える」 (2014.07.14)
- 「それなのに、日本人は負けてはダメ、勝ち続けなければダメ、という考え方が根強いようです」(2014.07.10)
- 「絶対に負けられないという考え方をしてはいけない。絶対に負けられないというのは戦略の放棄だと思う」(2014.07.09)
この記事へのコメントは終了しました。
« 「どうも日本人は、そういうミスやリスクのある要素を排除したいと考える傾向があるようだ。サッカーに限らず、人生においても、そういう傾向があるように思える」 | トップページ | 「多元的な環境がいい男を作るんです」 »
コメント