「日本人は空気に流される。残念ながらメディアはそれを抑える安全弁として機能していなかった」
サッカーの元日本代表監督の岡田武史さんが、西日本新聞(8月18日) でインタビューに答えている。その特集記事の題は『W杯と集団的自衛権』である。
「帰国後、妙な感覚に陥ることが多い。私が普通だと思っていたことは実はそうではなく、逆に私が間違っていたのか、と」
「日本はどうか。日本代表が負けても人々は渋谷でハイタッチをする。1次リーグで敗退した代表が成田空港に戻ると、千人を超えるサポーターが出迎え、歓声を上げてカメラを向ける。これは果たして普通のことなのだろうか」
この記事で岡田氏が言いたいのは、W杯の本大会が行われたブラジルから帰ってきてみると、世界における「普通」と、日本における「普通」、そして自分にとっての「普通」、それぞれのズレに戸惑う、ということなんだと思う。
その感覚は、サッカーについてだけではない。大会中に閣議決定された集団的自衛権の憲法解釈にも向けられる。
「安倍晋三政権が、集団的自衛権の行使を可能とする憲法解釈の変更を閣議決定したことを、ブラジルで知った。そんなことがあるわけはない、国会議員も国民もばかじゃない、まずは先送りだなと思っていたから心底、驚いた。帰国して、何事もなかったかのような空気に、また驚いた」
普通…。
自分が信じる「普通」のズレに対する違和感。それが次から次に発生してくる感じなのだろうか。
岡田さんは、W杯のブラジル大会前に、メディアが「今回のチームは勝てる」と散々持ち上げ、強豪に対しても「攻撃的」にいくことで盛り上がっていたことに違和感を持つ。
「メディアもサッカー界も何も疑わず『攻撃的サッカー』へ流れてしまう。日本人は空気に流される。残念ながらメディアはそれを抑える安全弁として機能していなかった」
そして、次のように考える。
「よく、コンピューターに人間が支配される映画がある。今まさに皆がえたいのしれない空気に支配され、思考停止に陥っているのではと恐怖感を持っている」
空気の支配。思考停止。これまで何度も聞いたフレーズである。
サッカーでも、政治でも同じ。そうやって同じことが繰り返される。
精神科医の名越康文さんは、MBSラジオ『辺境ラジオ』(7月30日放送)で次のように語っている。
「日本の戦争責任を考える前に、敗戦責任をきっちり考える。なぜあの戦争に負けたのかをきっちり検証しなければ、戦争責任までいかない。戦争が正しい、間違っているというのではなく、なぜあの戦争に負けたのかを検証していない、という指摘には全くもって納得した」
「同じことがある。なぜW杯の前にあれだけ盛り上がってしまったのか…。日本、本当にこのパターンが多い。実はW杯と戦争は対だと思う。いま反省しておいたら、傷が浅く日本の病巣を取り出すことができるのにやらない」
失敗や間違いを犯した場合、まずはそれを認め、反省する。そしてなぜ失敗したのかを検証し、今後に生かそうとする。
それが「普通」なのではないか。
ザッケローニのサッカーが正しかったのか、間違っていたのかは、おそらく分からない。どれだけ検証してみたところできっと正しい答えはでない。
でも、なぜザッケローニのサッカーは、ブラジル大会で勝てなかったのか。つまり、勝つことに失敗したのか。これについては、検証すればそれなりの答えが得られるはずである。
でも、きっとやらない。メディアもサッカー界も「負け」には目を向けず、「次」、すなわちアギーレで盛り上がる。(7月9日のブログ)
戦争でも、政治でも、原発でも、そしてサッカーでも、同じパターンが繰り返される。
それを政治学者の白井聡さんは、「永続敗戦」と呼んだ。(7月15日のブログ )
政治学者の中島岳志さんの著書『アジア主義』をさっき読み終えた。日本が今後、アジアの国々との連帯を模索していくなか、必要な姿勢として次のような言葉が記されていた。
「無理の上に築かれた表層的反省を繰り返すのではなく、歴史をじっくり見つめること」 (P454)
この指摘はメディアにも当てはまる。いや、メディアにこそ当てはめたい。
かの戦争だけでなく、原発、そしてサッカーなど。失敗に直面する前に散々煽ったメディアにこそ、検証によって歴史を見つめることが求められている。
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