「僕は、私たちの一人ひとりが普段から目の前の現実をよく観て、よく聴くことこそが、巡り巡って『熱狂なきファシズム』への解毒剤になりうるのではないかと考えている」
前回のブログ(9月11日)では、「思考停止がファシズムを招く」という話をした。
そのあとドキュメンタリー監督の想田和弘さんの著書『熱狂なきファシズム』を読んだ。追加として、その中の言葉を載せておきたい。
この本の中で想田さんは、ファシズムについて次のような指摘をしている。
「ファシズムに『熱狂』は必ずしも必要ないのではないか。むしろ現代的なファシズムは、現代的な植民地支配のごとく、目に見えにくいし、実感しにくい。人々の無関心と『否認』の中、みんなに気づかれないうちに、低温火傷のごとくじわじわと静かに進行するものではないか」 (P7)
熱狂することもなく、意識することもなく、いつの間にか「自由」が失われていく。そして、ファシズムが広がっていく。まさに麻生副総理の言うところの「ナチの手口」の如く。
想田さんは、そうしたファシズムの広がりに対してできることして、次のことを挙げている。
「僕は、私たちの一人ひとりが普段から目の前の現実をよく観て、よく聴くことこそが、巡り巡って『熱狂なきファシズム』への解毒剤になりうるのではないかと考えている。なぜなら虚心坦懐で能動的な『観察』は、無関心を克服し、物事の本質を正確に見抜くための、重要な手立てとなるからだ」 (P12)
目の前の現実をよく観ることが大事…。
この指摘は、「目の前」について書いた次のブログの言葉と重なっている。
(6月13日のブログ)(6月28日のブログ)(「目の前」)
「目の前」を大切にすることは、考えることでもある。すなわち思考停止を避けることにつながる。
また、8月30日のブログでは、スポーツライターの藤島大さんの次の言葉を紹介した。東京新聞(8月5日)より。
「スポーツは炭坑のカナリアでありたい。先んじて異変を伝える。戦争の兆候は日常より、まず余暇の場に表れるからだ。かつて『富国』に奨励されたスポーツは、やがて『強兵』に組み込まれた」
これと、次の劇作家の平田オリザさんの言葉が重なる。『熱狂なきファシズム』より。
「私たちアーティストとして一番困るのはファシズムなんですね。要するに、言論の自由を統制されることが一番困るのです。私たちは炭鉱のカナリアのように真っ先に死んでいく存在なので、そこは過敏かもしれませんね」 (P189)
ファシズムに対しては、「炭鉱のカナリア」の存在として、アートやスポーツの役割はとても重要なのである。
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