「われわれはじつは、自由を求めてはいないのではないか。無意気に不自由を欲しがっているのではないか、と思うのです」
前回のブログ(9月9日)の「反知性主義」にまつわる言葉の追加。
メモ書きを見返していたら「自由」について、作家の辺見庸さんの言葉が見つかったので、それを載せておきたい。著書『いま語りえぬことのために』より。
「われわれはじつは、自由を求めてはいないのではないか。無意気に不自由を欲しがっているのではないか、と思うのです。不自由のほうがいろいろ悩まずにすむ」
「サルトルに言わせれば、『人間は自由という刑に処せられている』。自由のほうが主体的に考え、悩み、選択しなければならないぶん、まったくの不自由よりも精神に負荷がかかる。なぜなら完全な不自由状態にあっては、考える余裕も必要もないからです。ファッショ的不自由の麻薬的な『魅力』は、逆説的に言えば、ものごとを深く考えずにすむことです」 (P88)
結局、「反知性」「思考停止」の方が居心地がいいから、そちらを選び取っているという。
そして、思考停止はファシズムにつながっていく。(9月5日のブログ)
フランスの寓話に『茶色の朝』(著・フランク・バヴロフ)という物語がある。ここでは「ファシズムの世界」が「茶色に染められていく社会」として描かれる。
その本の解説で、哲学者の高橋哲哉さんは、次のように指摘する。
「『なんだかんだ言っても、私たちはまだ自由じゃないか。権力の弾圧など受けたことはないし、毎日の生活でとくに不自由を感じることはない』。私たちがいまも感じているこうした『自由』―それが、すでに相当程度『茶色』に染まった自由であり、『茶色の自由』でないと誰が言い切れるでしょうか」 (P45)
そして、次のように書く。
「社会のなかにファシズムや全体主義に通じる現象が現れたとき、それらに驚きや疑問や違和感を感じながらも、さまざまな理由から、それらをやりすごしてしまう」
「やり過ごしてしまうとは、驚きや疑問や違和感をみずから封印し、それ以上考えないようにすること、つまりは思考停止してしまうことにほかなりません」 (P46)
やり過ごすこと、つまりは、事なかれ主義…。これは決してリスクを負わない姿勢や風潮のことでもある。
政策研究大学院大学客員教授の小松正之さんは、「知」と「リスク」の関係について次のように語る。雑誌『中央公論』(2013年11月号)より。(2013年10月15日のブログ)
「知識を得ることで自分の世界を広げることができるかどうか。これがリスクを取れる人間とそうでない人間を分ける」 (P45)
「私たちができることがあるとすれば、ひたすら愚直に学び続けると言うことだけだ。教養と学びに終わりはない。いざというときにリスクを取る自信と能力をつけるために、我々は学び続けねばならない」 (P45)
リスクを避ける「事なかれ主義」。これに陥らないため、つまりはファシズムを招き入れないためにも、我々は学び続ける必要がある。こういうこと。
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