「知性を求める態度は軽蔑の対象になります。理屈をこねくり回して何もしない人間だとバカにされます」
今回からは、少し「反知性主義」というものに注目してみたい。
今のお笑いには「社会批判」「社会批評」「社会風刺」の視点がなくなっているのでは、ということを考えた。(8月29日のブログなど)
この「批評性」が失われているという風潮は、「お笑い」の世界のだけのことでない。
作家の平川克美さんの著書『「消費」をやめる』を読んでいたら、今の起業家について、次のような指摘が載っていた。
「シリコンバレーを好む人たちは、アメリカ流のアグレッシブな人間像を肯定します。ビジネスの目標は、成功して富を手に入れることであり、人生の勝利者になることだというものです」
「わたしからすれば、『そこに何かが足りない』という感じが拭えません。何が足りないかと言えば、物事を批判的に捉え、徹底的に思考しようとする知性です。シリコンバレーに充満するアメリカ的起業精神には、知性が決定的に欠けていると感じていました」 (P97)
今の起業家には、「物事を批判的に捉え」る姿勢が足りないとの指摘。僕が、今の「お笑い」に対して感じた「何かが足りない」というのと、まったく同じことである。
平川克美さんの、さらなる指摘は興味深い。
「そういう場所では、知性を求める態度は軽蔑の対象になります。理屈をこねくり回して何もしない人間だとバカにされます。思索を深めてもお金にはならないからです」 (P98)
そこでは知性が軽蔑の対象になっているという。知性を用いて思考することは、効率の悪いことであり、面倒なことである。そんな感じなのだろうか。
当然ながらそんな社会からは、知性の裏付け必要とされる「批評」「批判」「風刺」が疎まれ、排除されていく。それはメディアも例外ではない。(7月9日のブログ )
こうした「知性」を軽蔑、排除の対象とする風潮のことを「反知性主義」と呼ぶ。
反知性主義とは何か。それにまつわる言葉を並べてみる。
批評家の東浩紀さん。ツイッター(6月27日)より。
「日本は徹底して反知性主義の国(頭いいひとや上品なひとをバカにする国)で、そこがいいとこでもあるからね。アニメとかニコ動とかそういう国だから栄えてるわけでね。むずかしいですよね」
佐藤優さんは、著書『「知」の読書術』で「反知性主義」についてこう定義する。
「反知性主義とは、実証性や客観性を軽視して、自分が理解したいように世界を解釈する態度のこと」 (P80)
文化放送『くにまるジャパン』(8月29日放送)では、次のように話していた。
「反知性主義というのは、大学の先生でも、新聞記者でもなる。要するに、具体的で、客観的で、実証的なデータがあるのに、それらに目をつむって、自分の思い込みの物語に固執するということ。こういうことが世界に出始めている。それから『決断が重要だ』『問答無用だ。何も考えずにとにかくやれ!』
こういうのは危ない。その辺に警鐘を鳴らしたい」
朝日新聞(2月19日)では、『「反知性主義」への警鐘』という特集記事を組んでいる。
その記事によると、「反知性主義」の特徴について、アメリカの歴史学者、ホーフスタッターさんは、著書『アメリカの反知性主義』で次のように定義している。
「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑」
まさに「知性」を面倒くさいもの、場を壊すもの、として、さらには排除していく風潮のことである。
やれやれ。これが広がっているのでる。
でもここで、もう一度、宮崎駿さんの言葉を。NHK『プロフェッショナル』(2013年11月13日)より。(7月4日のブログ)
「世の中の大事なことって、たいてい面倒くさいんだよ」
知性を面倒なものとして排除した社会が、どうなるか。ちょっと考えれば、分かりそうなもの。
付け足し。
今、公開中の映画『LUCY』で、モーガン・フリーマン演じるノーマン博士は、次のように言う。
「生命の使命は、次世代に“知識”を伝えること」
この言葉からすると、反知性主義は、生きることの否定ということになってしまう。
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