「誰かが自分に都合の良い物語を抱くこと自体は認めるが、それを他者に強要しようとする行為には反対する。つまり、リベラリズムです」
今回も「反知性主義」について。前回のブログ(9月5日)の続きで、反知性主義に対してどう振る舞えばいいのか。それについての言葉を並べてみたい。
その前に。
前回の最後、「反知性主義」や「ヤンキー化」というのは、思考停止につながるという話をした。
そこで思い出したのが、映画『ハンナ・アーレント』の中での、ハンナ・アーレントの言葉。
「思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです」
残虐行為…。反知性主義には、知性を求める人たちをまさに「攻撃性」を伴って批判する傾向がある、との指摘を前回紹介した。
これは、いとうせいこうさんの次の言葉とも重なってくる。東京新聞(9月15日)。(9月1日のブログ)
「自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう。そうすると、権力がやらなくても、自動的に自由を求める人たちの声がだんだん小さくなってしまう」
「下からの自粛と同時に、大きな権力に便乗するような欲望が動いて、結局はみんなで権力をつくっていく。特に自分たちが得もしないあろう人たちがそれをやって、他人の自由や良心を手放させていくことに快感を覚える時代になっちゃっている」
まさに、この攻撃性のベクトルの先には、ナチの残虐行為や『アクト・オブ・キリング』の世界があるんだと思う。
では、我々は、この広がりつつある「反知性主義」、「ヤンキー化」に対してどう振る舞っていけばいいのか。
佐藤優さんは、著書『「知」の読書術』で次のように書く。
「反知性主義者に実証的批判を突きつけても、実効的な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合のよいことは大きく見え、都合の悪いことは視野から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性に基づく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません」 (P82)
相手を批判しても意味がない…。こまったもんだ。
湯浅誠さんの次の言葉を思い出す。文化放送『ゴールデンラジオ』(6月24日放送)より。
「鈍感さには、もう鈍感にならないと耐えられなくなってしまう」
これは都議会のセクハラ発言を受けてのトークで、セクハラを受け流す癖がついた女性についての言葉。
これに倣えば「反知性には、自分も反知性でいかないと耐えられなくなってしまう」となってしまう。かつて渋谷陽一さんが吐露したジレンマとも重なる。(4月18日のブログ)
やはり、それでは悲しい。では、どうすれば?
その佐藤優さんは、朝日新聞(2月19日)では、「反知性主義」への振り舞い方について次のように書いている。
「自由です」
これを最後の足場にするしかないと説く。
「誰かが自分に都合の良い物語を抱くこと自体は認めるが、それを他者に強要しようとする行為には反対する。つまり、リベラリズムです」
自分たちの自由の領域をいかに守るか、ということ。
政治学者の岡田憲治さん。著書『ええ、政治ですが、それが何か?』より。
「自分の欲望に根ざして世界のあり方や希望を他者に伝える際に、このように風通しが悪くなり、自由にものを言うことがはばかれるようになり、そして言葉が大雑把になっているならば、そうなっている理由を考え、多くの言葉を動員して、政治のイメージを豊かにして、その原因を明らかにしなければなりません。自由にものが言える世界がなければ、人は自分と仲間の力を引き出して楽しく生きていることができないからです」 (P272)
自由にものを言い続ける…。
作家の辺見庸さん。神奈川新聞(2013年9月8日)より。(2013年9月17日ブログ)
「自由であるためには孤立しなくちゃいけない。例外にならなくてはいけないんです」
反知性主義やヤンキー化の流れから「例外」となれるか。
作家の平川克美さん。ラジオデイズ『はなし半分 特別号』(8月配信)より。
「知性主義と反知性主義を分けるのは、孤立に耐えられるか、という所にあるのでは。ある流れに乗らないとダメ、な状況が色んな局面である。そういう時に敢えて流れに乗らない。そうすると色んな指弾の矢が飛んでくる。それでも自分の知性を信じる。そこに立ち止れるかどうかは大きい気がする」 (パート2 50分ごろ)
そして改めて作家の佐藤優さん。次の言葉にもつながっていくる。著書『野蛮人の図書室』より。(2012年1月19日のブログ)
「『どうしたらいいか?』って問いには、答えを出さずに不安な状況に耐えることが大事だと思う。回答を急がない。不安のままぶら下がって、それに耐える力こそが『教養』だと思うんですよ」
教養・・・。すなわち知性のことでもある。
ジャーナリストの池上彰さんは、次のように書く。著書『大人の教養』より。
「こういう教養を身につけていけば、人間はさまざまな偏見から、あるいは束縛から逃れ、自由な発想や思考を展開していくことができる」 (P24)
ちょっとまとめてみる。
「知性」や「教養」を守るためには、「自由」が必要。
その「自由」を手に入れるためには、「知性」や「教養」が必要。
さらに、その「自由」を守るためには、孤立や不安を恐れない。
それに耐えるために必要なのも、結局は「知性」「教養」。
どうも、こういうことのようである。
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