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2014年10月 6日 (月)

「なぜ時間が早く進み、なぜ忙しくなったか。それは、すべてが予測されるようになったからである」

文化人類学者の今福龍太さんの指摘から始まった「予測社会」について。(9月18日のブログ以降)

今回は「その7」。いろいろ調べたり、文献を読んだりしていると、様々なことがこの「予測社会」や「未来予測」とつながってきて、非常に興味深い。目についた言葉や指摘からさらに並べていきたい。

なるほど、と思ったのが、次の養老孟司さんの指摘である。著書『カミとヒトとの解剖学』より。

「時間が早く進むことと、忙しくなるのは同義らしい。なぜ時間が早く進み、なぜ忙しくなったか。それは、すべてが予測されるようになったからである」

なぜ子どもの頃、あんなに長かった一日が、大人になるとあっという間なのか。「予測」と関連しているということ。確かに大人になると、たくさんのことを「予測」できるようになる。

「なにが起こるか、それがわからないと、なぜ一日が長いのか。そこには『未来がある』からである。未来とは、本来の意味合いでは、なにが起こるか、『まだ未定』のものだった。しかしいまでは、その未来が殆ど現在に変わった。なぜなら、そこで起こることは、むしろ『既定の事実』に近くなったからである」 (P171)

未知のものへの不安を払しょくするために、「既定のもの」で埋めていこうとする。「ああすれば、こうなる」社会。(9月19日のブログ

「この将来とはなにか。それはすなわち『現在』であろう。予測され、統御された『確実な未来』、それはもはや未来ではなく、現在であろう。われわれは可能なかぎり予測を進め、その結果にしたがって、未来を『統御する』。それが進めば進むほど、未来はどんどん現在に転化して行き、われわれはどんどん忙しくなる」 (P173)

このことについて、内田樹さんは次のように書く。著書『こんな日本でよかったね』より。

「私たちは未来について考えるときにどうしても『現在』という固定的な視座に腰を据えて、そこから『未だ来たざるもの』を推量しようとする。『未来』というのは定義上、『何が起こるかわからない』ものである」 (P142)

「現在の視座に腰を据えている限り、私たちはすでに起こったこと、すでに知っていること、すでに経験したことを量的に延長することでしか『未来』を考想することができない。だが、未来は決して『現在の延長』ではない」 (P142)

「そのことは骨身にしみてわかっているはずなのに、私たちはそのつど未来を『現在を量的に延長したもの』として把持しようと虚しく努力する」 (P143)

その内田氏が師と仰ぐ、フランスの哲学者のエマニュエル・レヴィナス氏著書『時間と他者』にも同様な指摘があった。

「未来の先取り(予測)、未来の投映は、未来というかたちをとった現在にすぎず、新生の未来ではないのだ。未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捕らえるものなのである。未来とは、他者なのだ。未来との関係、それは他者との関係そのものである」 (P67)

「現在からあらゆる予測が剥奪されるとき、未来は現在と共通する性質のすべてを失うのである。未来は、われわれができればそこで未来を捉えたいと思っているような、あらかじめ実存する永遠とでもいったもののただ中にただ埋め込まれているものではないのだ。未来は絶対的に他者なるもの、絶対的に新たなものなのである」 (P78)

難しい表現になっているが、 

「予測される未来」とは、あくまでも「現在」の延長線上であり、それは本来の「未来」とは異なる、という指摘なんだと思う。

すなわち。 

「予測社会」を進めるということは、永遠に「現在」を続けたいという欲望なのである。そして、その通りに生きようとすることは、我々が「未来」を失っていくということでもある。

多分このことと、現代社会が持っている、閉塞感や息苦しさ、新しい価値観の生まれにくさ、さらには自殺者の多さなどとも、関連してくるのかもしれない。





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