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2014年11月19日 (水)

「表向きは民主主義でも、これは『選挙勝利至上主義』と呼ぶべきものだ。権力者に都合が良く、より大きな自信を抱かせるための選挙に、私たちは無理やり参加させられようとしている」

なかば冗談だろうと思っていた解散総選挙。本当にやるようだ。

前々回のブログ(11月13日)
では、選挙や政治の世界まで浸蝕している「勝利至上主義」についての言葉を並べた。

その後、今の政治に対する次の指摘を見つけた
作家の諏訪哲史さん毎日新聞(11月17日)より。

表向きは民主主義でも、これは『選挙勝利至上主義』と呼ぶべきものだ。権力者に都合が良く、より大きな自信を抱かせるための選挙に、私たちは無理やり参加させられようとしている」

きのう糸井重里さん近著『ぼくの好きなコロッケ。』を読んでいて、それと重なる言葉が出てきたので紹介したい。まったく選挙とは関係ない分脈での言葉だけど、選挙の本質を表している。

「『選ばれようとして調整されたじぶん』が選ばれてしまうのは、互いにとっていいことなのか」

「『選ばれること』って、ほんとは目的じゃないではずです」 P213)

そうなのである。選挙では、選ばれることが目的ではない。選ばれて何をするかが大事なのである。

しかし今の時代、選挙で選ばれた瞬間、なんでもできるということになる。集団的自衛権の憲法解釈の変更をおこなったときの安倍総理の答弁を思い出す。

「最高の責任者は私だ。政府答弁に私が責任を持って、その上で私たちは選挙で国民の審判を受ける。審判を受けるのは内閣法制局長官ではない。私だ」

今度の選挙で「過半数」をとれば、集団的自衛権、特定秘密法、原発再稼働、消費増税など全てのことが「信任」を得たことになる。

確かに安倍倍総理や、橋下市長など「勝利至上主義」を志向する政治家は、安々と選挙を乱用していく。(3月28日のブログ


こうやって選挙による「勝利至上主義」の結果、今の政治家は「独裁」のようにしてしまう。

まさに「現代の独裁」内田樹さんは、安倍政権がやろうとしていることについて、次のように述べている。
東京新聞(11月16日)より。

「自民党の改憲案では、非常時に国会での審議を経ずに法律と同等の政令をつくれる。行政府にすべての権限を集中して事実上の独裁政権をつくることを意味します」

また田樹さんは、こんな指摘もしている。著書『憲法の「空語」を充たすために』より。


「立法府が機能不全に陥り、行政府が立法府の機能を代行する状態のことを『独裁』と言います。日本はいま民主制から独裁制に移行しつつある。有権者はそれをぼんやり見ている。ぼんやり見ているどころか、それを『好ましいことだ』と思っている人間が国民の半数近くにのぼっている」 (P4)

「どうしてこれほど危機感が希薄なのか。それは国民のほとんどが『株式会社のサラリーマン』のものの見方を深く内面化してしまったせいだと思っています。なぜサラリーマンは独裁に違和感を持たないのか。その問いの答えは、株式会社の従業員たちが日頃慣れ親しみ、ついに骨の髄までしみ込んだ『有限責任』感覚のうちに求めることができるのではないか、というのが私のここでの仮説です」 (P5)


早稲田大学教授で政治学者の豊永郁子さん朝日新聞(10月8日)より。

「安倍政権は、まるで発展途上国で見られる『開発独裁』を夢見ているかのよう。経済発展のため、という名目で行政が主導権を握り、事業者に号令をかけ国民を働き詰めに働かせる」

安倍晋三というリーダーが「取り戻したい」のは、まだ先進国ではなかった時代に日本社会に存在していた「独裁力」や「高揚感」や「一糸乱れない感覚」なのかもしれない。

きっと2020年のオリンピックも、「独裁」に利用されていく。コラムニストの小田嶋隆さん。著書『「踊り場」日本論』より。

「オリンピックって、日本は一丸になるべきだっていう話に使われちゃうでしょう。日の丸がいくつ揚がるとか、金メダルがいくかみたいなことで、そういうときに一瞬、日本って言葉がすごく連呼されて、日本人って意識がすごく高揚するじゃないですか。政治家の人たちはそれがすごく大好きなんですよ」 (P213)

「オリンピックに関わる土建屋さんたちもがんばるし。オリンピック通りってのがうちの近くにも通ってますけど、オリンピックになるとなんでもOKになっちゃうんです」 (P213)

また教育も「独裁」に利用される。山崎雅弘さんツイッター(10月22日)より。

「首相周辺や日本会議など、国家神道系の人々が『道徳教育』にこだわるのは、かつて『道徳教育』を自分たちの政治教育の道具にして、国家体制を完全に支配できたという『成功体験』が忘れられないからだろう。しかし彼らは、その『一時的成功』が最終的に『どんな結末』を迎えたかを絶対見ようとしない」

かつてのリーダーが持っていた「独裁感覚」を手にするためには、選挙だろうが、五輪だろうが、教育だろうが、経済だろうが、あらゆるものを利用していこう。もしかしたら、それが安倍政治の目指してることなのだろう。

ただ、そのかつての「独裁」が導いた悪夢のような結末については忘れているのか、見ないようにしているのか。

最後に、動物学者の山極寿一さんの指摘を。著書『「サル化」する人間社会』より。

「勝者にならなければいけないかのような意識が、世の中には蔓延しています。そのうえ、勝者は敗者を押しのけるだけではなく、支配する。これは平等意識からは程遠いものです」 (P168)

「平等よりも勝ち負けが優先するサル型の階層社会では、弱いものは身を引いて強いものを優先させるので、喧嘩が起きにくい。これは支配する者にとってみれば非常に効率が良いですし、経済的です」 P168)

サルの世界は、まさに独裁。ゴリラの世界とは違う。

そういえば、サルもそうだけど、ヤンキーの世界も「リーダー」を求める。日本政治の「独裁」とは、まさに政治の「サル化」であり、「ヤンキー化」なのであろう。今度の選挙では、そんなことも問われているのでは。

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