「『国のために』という言葉は、他の国だと『国民のため』という意味を含んでいます。国民全体が国という考え方です。でも、日本では国民を除外して国のためを考えることになるんです」
被災地で進んでいる「復興」について感じる違和感。きのうのブログ(3月13日)では、そんな言葉を並べた。
いろいろ考えてしまう。結局、その違和感とは、そこに住む人たちの「個々の暮らし」より、中央(霞が関)が仕切る「復興事業」というシステムが優先されている、ということなのではないだろうか。
きのう紹介した社会学者の山下祐介さんは、安倍政権が掲げる「地方創生」についても次のようにも書く。雑誌『世界』(4月号)より。
「今の態勢のままでは、ここでまた新たな『地方創生至上主義』が生み出され、地方を守るためのはずが、それを破壊するものへと展開を始めて行くのではないか」 (P90)
まさに、破壊の破壊…。
地方政策でも、被災地における「復興」と同様に、地方の人たちの暮らしよりも、「地方創生」という名前の事業(システム)を進めることが優先されていくのではないか。そういう懸念である。
そんなことを考えていたら、安倍総理の次の言葉にぶつかった。この言葉によって、色んなことが腑に落ちた。
「頑張れ日本!」の結成大会(2010年2月2日)での、安倍晋三氏(当時は総理ではない)による基調講演での言葉。『livedoor NEWS』(3月11日) より。
「鳩山さんは『命を守りたい』 こう言ってましたね。医者じゃないんですから。総理大臣なんですから。国を守るんですよ、総理大臣の仕事は!皆さん、そうじゃありませんか!?」
何だかなあ…。総理大臣の仕事は「国民の命を守ること」よりも、「国を守ること」。どっちが…という問題ではないと思うが、安倍さんにとっては、そういうことらしい。
結局、何はともあれ、「國體護持」なのである。この国は。
国民の命を犠牲にしても、とにかく国を守ること。それが第一なのである。国民あっての国ではなく、国あっての国民なのである。この違いは大きい。
思えば、「イスラム国」による人質事件での政府の処し方もそうだった。
だから、被災地では「個々の暮らし」より、「復興事業」が優先されるし、地方でも「個々の暮らし」より「地方創生事業」が優先される。
個々が犠牲にされ、やがて街は空洞化してしまったとしても、事業というシステムだけは強固に進められていく。それが「国土強靭化計画」の本質なのだろう。
國體護持。この国は、70年前に終えた戦争のときから、そんなことばかり繰り返している。
映画監督の園子温さんの言葉。東京新聞(3月8日)より。
「『国のために』という言葉は、他の国だと『国民のため』という意味を含んでいます。国民全体が国という考え方です。でも、日本では国民を除外して国のためを考えることになるんです。戦争でも同じで、日本人は国のために死ぬと言います」
戦史研究家の山崎雅弘さん。自身のツイッター(3月12日) より。
「『国』を守るためなら『命』が多少犠牲になってもやむを得ない。一見もっともらしい考えだが、人権や人道に重きを置く国は、『命』の犠牲が増え続ければ、戦いとは別の方法を模索する。権力機構の『国家体制』を『国』と同一視する国は、際限なく『命』が失われても『国家体制』を守る戦いをやめない」
今、安倍政権が進めようとしている、新たな法律や憲法改正、成長戦略などについても、「ひとりひとりの暮らしより、国のため」ということが優先されている。
政治学者の大竹弘二さん。著書『統治新論』より。
「国民を基礎とする法や主権のもとで統治がコントロールされるという近代国家の建前が逆転し、統治をいかに効率的におこなうかが優先され、そのなかでいろんな法律が決められていってしまう。つまり、法や主権のほうが効率的な統治のための道具になってしまうという倒錯した状況です」 (P13)
こうした「個よりシステムを優先させる」すなわち「國體護持」の考えを進めていく限り、いつか日本社会全体も被災地同様、空洞化していってしまうのではないか。もしかしたら、すでにそうなっているのかもしれない。
社会が空洞化し、それを覆うシステムだけがどんどん強固となり、やがて暴走していく…。少なくとも70年前はそうだった。
憲法学者の石川健治さんの言葉。朝日新聞(2014年6月28日)より。
「いまや〈個〉を否定された上で、密接な国を含む〈全体〉のために援用されようとしているところに、『いやな感じ』がある」
<“國體護持”関連>
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