「言論の自由は、そしてあらゆる批判精神は、指の間から漏れる白砂のように、静かに、音もなく、しかし確実に、失われつつあったのである。その結果がどこへ行き着いたかは、いうまでもない」
日曜日の統一地方選挙。僕の自治体の投票率は40%を切っていた。どうにかしないと…。
社会の「公共性」を育むためには、対話による異なる意見や価値観のすり合わせが必要、というような話を、ここ数回のブログではゴロゴロと転がしながら自分になりに考えている。
本来、「公共性」を手に入れるための大切な手法である「議論」が、日本ではなぜ成り立たないのだろうか。そんな話を前回のブログ(4月25日)では考えた。
さらに今回は、「メディアと公共性」について考えてみたい。きっと「公共性」を育むためのメディアの役割は大きいと思うから。
ドキュメンタリー監督の想田和弘さんは、最近の「選挙」について次のようにも書いている。雑誌『ジャーナリズム』(4月号)より。
「この議論なき選挙の傾向は、近年改善されるどころか、ますます悪化しているようにも感じる」 (P10)
「ほとんどのテレビ局は、何を恐れているのか『さわらぬ神に祟りなし』と自粛することによってリスクを冒すよりも、最初から議論しないことを望んでいるのである」 (P11)
特に安倍政権になってから、テレビの選挙報道が全く盛り上がらない。今のテレビメディアは候補者たちの異なる主張や公約をぶつけあう場を設け、候補者に提示する。その役割から自ら逃げている。そんな指摘である。
そんなメディアの姿勢は、自ら「言論の自由」「表現の自由」を放棄しているともいえる。
内田樹さん。雑誌『AERA』(4月13日号)より。
「『言論の自由』とは自分の言いたいことを言う自由のことではない。そうではなくて、異論が行き交う場、多様な政治的意見が共生しうる場に対する敬意のことである。人々が情理を尽くしてそれぞれの自説の受け容れを粘り強く求めるならば、長期的には必ず『よりましな知見』が生き残るだろうという、場の審判性に対する信頼のことである」
京都大学教授の曽我部真裕さんは、「言論の自由」について次のように書く。きのうの朝日新聞(4月28日)より。
「その根幹にあるのは『異論を認める』ということですが、国民もメディアも、それを意識しなくなっている。特にネット上では、異論を認めて議論するのではなく、異論をつぶしあう。メディア自身までが、批判されるとすぐ訴訟を起こす」
それは、メディアと政治家の関係でも…。
マイケル・サンデル氏の言葉。『President ONLINE』(2013年1月5日)より。
「メディアは、市民の問いかけに対して、真剣な議論の機会を提供し、政治家にプレッシャーを与えなくてはいけない」
公共性を育むために必要な「議論」「対話」、そして「批判」。もっとメディアは、自らの役割について考える必要がある。
ジャーナリストの神保哲生さん。ビデオニュース・ドットコム「ニュース・コメンティタリー」(2014年12月6日配信)より。
「確かに何が公共かというのはそれぞれの人の価値観に関係してくると思う」
「ただ権力を監視するという機能、メディアの機能は、あらゆる公益に資するという前提が、今はちゃんと教育されているのかという感じがある。いろんな価値観があってもいい。でもどんな価値観があっても、きちんと権力を見ていくという行為自体は、それ自体が公益的、公共的なふるまいという前提がある」
では、そんな情けない昨今のメディに対して、我々はどうするべきなのか。
さらにマイケル・サンデル氏の言葉。『President ONLINE』(2013年1月5日) より。
「マスコミ改革のためには、視聴者である市民が、真剣な熟議の場を求めていることをメディアに感じさせる必要がある」
朝日新聞記者の恵村順一郎さん。朝日新聞(4月24日)より。
「そしてひとりひとりの国民には、報道機関と権力を厳しく見張っていただきたい。異論や批判を排除せず、むしろ敬意を示す。そんな多様性ある社会こそが、健全な民主主義を育むことができる」
地味な作業だけど、何とかしないと「言論の自由」、そして「民主主義」がなくなってしまう…。
最後に。
加藤周一さんの自らの体験による言葉。朝日新聞(4月24日)より。
「言論の自由は、そしてあらゆる批判精神は、指の間から漏れる白砂のように、静かに、音もなく、しかし確実に、失われつつあったのである。その結果がどこへ行き着いたかは、いうまでもない」
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