「過去と現在は地続き。検証を忘れれば、同じ惨事が繰り返されます」
きのう自転車で神宮の森を久々に通った。国立競技場の場所は、ぽっかりと大きな空間が出来上がっていた。青い空がとても広い。
どんな競技場が出来るのだろうか。
勝手なアイデアとしては、あの巨大な空間を芝生の広場にする。五輪の開閉会式の時だけは、プロジェクションマッピングで幻想的な競技場を創り上げる。…というのは、どうだろうか?そしてその芝生の大きな広場の片隅に、ザハ氏の当初のデザインを採用した小さな小さな公衆トイレを作る。
いいアイデアだと思うんだけど。
この国立競技場の問題について、きのう東京都知事の舛添要一氏は責任問題を追及した。今週火曜日(21日)の会見でも、次のように述べている。
「こういうことは検証して、問題があるところはきちんと責任をとってもらわないといけないのですが、誰がどういう責任を持っているかが全くわからない。これこそが無責任体制だと思います」
この翌日には、組織委員会会長の森喜朗氏が記者会見(7月22日)している。
「どこに責任があるか、難しいが、全体で負わなくてはいけない。誰がどうこうということも大事ですが、新たに官邸が責任を持ってやると。それを見てからでいいんじゃないですかね。責任と犯人を持ち出して、あまりいいことはないと思いますね」
まさに丸山真夫氏による「無責任の体系」の見本のようなコメント。全体で責任を負う…。つまりは「一億総懺悔」なのである。
過去を検証し、責任の所在を明らかにし、失敗を繰り返さないようにする。この国は、これができない。(2014年11月11日のブログ)
作家の赤坂真理さんのコメント。朝日新聞7月23日より。
「天皇を中心に据え、責任者がわからないまま戦争を始めて敗戦に至った権力構造とは、何だったのか。なぜ国全体の利益を求める議論にならなかったのか。それらは今の社会にも脈々と生き続けているものです」
かの大戦も、4年前の原発事故も、今回の国立競技場の問題も同じなのである。
相手を黙らせる際には「最高責任者は私」「私が総理大臣なんですから」と見栄を切る安倍総理だって、実際にコトが起きて責任を追及されると知らんぷりするのだろう。きっと。少なくとも、ISによる人質事件のときはそうだった。
赤坂真理さんは、次のようにも言う。
「過去と現在は地続き。検証を忘れれば、同じ惨事が繰り返されます」
そして作家の高橋源一郎さんの言葉。朝日新聞7月22日より。
「過去は、わたしたちとは無縁ではなく、単なる思い出の対象でもない。『そこ』までたどり着けたらなら、わたしたちの現在の意味を教えてくれる場所なのだ」
同じく高橋源一郎さんの言葉。著書『ぼくらの民主主義なんだぜ』より。
「なぜ、その問題は、いまもわたしたちを苦しめるのか。それは、『過去』というものが、決して終わったものではなく、その『過去』と向き合う、その時代を生きる『現在』のわたしたちにとっての問題だからだ」 (P227)
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