「重要なことは二度経験しないと本当は理解できないのです。ドイツは戦争に二度負けているが、日本は一度しか負けていない」
安倍晋三総理が、「戦後70年談話」を発表した。テレビで聴いていて、僕なりにいろいろと思ったこともあるが、今日はその中のある一文をピックアップしてみたい。外務省HPより。
「満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした『新しい国際秩序』への『挑戦者』となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」
ここで“挑戦者”という言葉が出てくる。外務省の英訳には、「challenger」と書かれている。
チャレンジ…。
前回のブログ(7月27日)で触れた東芝の粉飾決算でキーワードとなった言葉である。
太平洋戦争当時の日本政府や軍部は、国際社会に「チャレンジ」した。そして、大きな犠牲を払ったうえで、ちょうど70年前のきのう「敗戦」したのである。
“チャレンジ”というものは、本来の意味からすれば、そういうものなのだろう。失敗の可能性が高いが、あえて挑むことのこと。
そして、前回のブログでは、“チャレンジ”という言葉のほかに、日本社会は、もはや「粉飾社会」「水増し社会」と呼んでいいのではないのか。そんなことを書いた。東芝だけでなく、日本の社会全体において、自分たちを必要以上により良く見せようという「粉飾」「水増し」にあふれているのではないか。
日本在住が長かったオランダ出身のジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、最近の日本社会について次のように指摘している。著書『偽りの戦後日本』より。
「やがて日本も新自由主義の影響を受けるようになりました。『効率』ばかりを重視すれば、クオリティ(質)に問題が生じてしまいます。それでもよしとされるようになった。中身の質がどうであれ、とにかく効率を重視する。そのためには『見た目』が重要です。見た目さえ整っていれば、実態が伴っていなくても構わない。つまり、現実が『見た目』に置き換えられてしまった」
「PR(パブリック・リレーションズ=広報活動)を駆使すれば、『見た目』を繕うことも簡単です。そうしてPR重視の考えが広がってしまい、日本の良さのみならず、本来持っている強さまで失われていきました」 (P143)
まさに、東芝が陥った問題の本質は、ここにある。
今の社会では、とにかく「見た目」が重要、とのことである。新自由主義の広まりによる「効率」崇拝。それによって、あらゆる場所で「見た目」重視が、日本全体に広がっているということになる。
このウォルフレン氏に対して、政治学者の白井聡さんも次のように語る。著書『偽りの戦後日本』より。
「新自由主義は世界資本主義の趨勢です。効率が効果にとって代わることで、本質的な意味での生産性の基礎となる社会の体力が奪われて行きます。だから中身はスカスカになって行くのですが、それを広告で誤魔化す。あらゆる社会的領域でそのような現象が起こっています」 (P143)
もしかしたら…、と勝手に考えてしまったのが、「広告によって『見た目』を繕う、ごまかす風潮」は、そのまま戦争を受容する社会への流れ、空気づくりにつながりやすいのかもしれない、ということ。
NHKスペシャル『憎しみはこうして激化した~戦争とプロパガンダ~』(8月7日放送)を観た。
太平洋戦争当時、日米両国ともに、敵に対する憎しみを煽ったプロパガンダ映像を作った。それによって国民の戦意高揚を促し、戦費調達のための巨額な国債購入につなげた、という。
この番組には、太平洋戦争当時、硫黄島などの戦地での撮影の責任者を務めたアメリカ軍元海兵隊映像部のノーマン・ハッチ氏という方が出てくる。94歳でいまも健在である。
ハッチ氏は、次のように語る。
「司令部は、アメリカ兵の遺体や負傷者の映像を公開すれば、国民が戦争に対して悪いイメージを抱くと恐れていました。『不都合な映像』を排除することでリスクを避けたのです」
「プロパガンダの目的は、人の心を操作することです。観客に次々と刺激を与え続けるのです」
「映像は使い方によって強力な武器となります。国民を動かし、戦争へ積極的に協力するよう導くのです」
戦争というものでは、国家や軍部にとって不都合なものは隠される。きっと特定秘密保護法案の整備や歴史主性主義というものも、この文脈の中で出てきたことなのだろう。
70年前と違うのは、今の時代には、テレビというメディアがある。このテレビというものは、70年前のニュース映画以上にプロパガンダに利用しやすいのではないか。
たまたまだが、久米宏さんが自身のラジオ番組でテレビというメディアについて次のように語っていた。TBSラジオ『ラジオなんですけど』(7月18日放送)より。
「テレビって怖い。話の中身を聴いていない。見た目だけで判断される。何を言っているかは二の次。それがテレビの本質です」
つまり、テレビというメディアは、「見た目」さえ整えれば、という“粉飾社会”“水増し社会”、すなわち新自由主義や戦争と相性がいいということなのであろう。
中身や本質というものより、効率、見た目が重視される社会が広がっていく。そこで我々は、どんなところに注意して処していけばいいのか。
もしかして、こんなことも処方箋になるかもしれない。ドイツ文学者の池内了さんの言葉。朝日新聞(8月14日)より。
「語られていること以上に、語り方が真意をあらわしているものである。時の権力者、また権力にすり寄る人々の語り口を、少し意地悪く見張っているのも悪くない」
我々は、“粉飾社会”“水増し社会”に埋もれないようにしないといけない。その社会では、常に本質を見抜く「眼力」を鍛えないといけない。きっと。
最後に、白井聡さんが上記の著書『偽りの戦後日本』で語っていた印象的な言葉も載せておきたい。
「重要なことは二度経験しないと本当は理解できないのです。ドイツは戦争に二度負けているが、日本は一度しか負けていない。だから敗戦の事実を完全には理解できていない。そのことが原発事故にも共通しているようにも感じます」 (P174)
<参考>
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- 「重要なことは二度経験しないと本当は理解できないのです。ドイツは戦争に二度負けているが、日本は一度しか負けていない」(2015.08.16)
- 「悪弊を断つためには、『おかしいぞ』と声に出してチャレンジする人物の出現を待つしかないのだろうか」(2015.07.27)
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