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2015年10月の記事

2015年10月19日 (月)

「今のジャパンの良さは主体性があること。コーチに言われた通りにするだけでなく、リーダーグループで常に、チームをどう運営するかを話し合っている」

ここ2回のブログでは、大活躍したエディー・ジャパンと、安倍総理の「一億総活躍社会」のベクトルの違いについて考えてみた。

今回も、改めて確認するつもりで新たな言葉を並べてみたい。

エディー・ジョーンズ氏は、ラグビー日本代表の帰国直後の会見(13日)で、次のように指摘した。

「日本のラグビーは本領を発揮できていないといつも感じていました。優秀な選手はたくさんいるが、日本のラグビー文化は選手の能力を十分に引き出せていない。規律を守らせ従順になるためだけの指導が行われている」

エディー氏を長く取材している生島淳さんのコメント。TBS『サンデーモーニング』(10月18日放送)より。

「号令のもとに従順に練習をこなしていって成果を上げていったのが日本のスポーツ界」

「昭和の文脈でのスポーツの強化だった。重要になったのが集団主義とか、目標に対して従順に勤勉に頑張っていくこと。そういったものが尊ばれて、日本の価値になってきた」

「もうそれだけでは勝てない。自分の判断とか、表現力を磨いていかないと駄目だよ、とエディ―監督はずっと言ってきた」


これまで「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン」というスローガンに代表されるような集団主義やチームへ従順さを選手たちに求めてきた日本ラグビー。

しかし世界とわたり合っていくためには、自主性を持ち、自分で判断できる「個人」を育てていかなければならない。エディー監督は、そう思い、それを実行した。だからこそ、世界と肩を並べることができたのだろう。

キャプテンのリーチ・マイケルさんの言葉。雑誌『Number』(10/23臨時増刊)より。

「今のジャパンの良さは主体性があること。コーチに言われた通りにするだけでなく、リーダーグループで常に、チームをどう運営するかを話し合っている。キャプテンは試合で最後の決断をするけれど、一番大事なのはリーダーグループです」 (P42)

自分たちで判断できるリーダーグループが必要…。

これは、中京大学教授の湯浅景元さんの指摘とも重なる部分がある。東京新聞(10/12)より。

「世界で勝つには、いい意味でのエリート養成が求められています。しかも、『日本のために』アスリートを育てるのではなく、才能ある『個人のために』その能力を伸ばすという発想の転換が必要です。まさにそれがグローバル化です」

「日本は、学校、企業がスポーツを担ってきました。その結果、アスリートたちのいざというときの心の支えが『母校、わが社、国のため』になってきました。もっと『個人のため』であるべきです」

「スポーツのもともとの意味は『余暇』『気晴らし』。アスリートたちが楽しんでこそ、世界で戦えるのです」


自分で判断ができる個人が思い切り力を発揮する。その上で、周りの選手を信頼し、連帯し、助け合う。だから強くて臨機応変な「チーム」「全体」「組織」が生まれる。

そして、できるだけ「楽しむ」。この要素も忘れてはいけない。我々は「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」なのである。

これらのことは、ラグビーやスポーツの話だけではない。もちろん「生きること」、「社会を作ること」にも当てはまる。

作家の村上春樹さんの指摘。著書『職業としての小説家』より。

「もし人間を『犬的人格』と『猫的人格』に分類するなら、僕はほぼ完全に猫的人格になると思います。『右を向け』と言われたら、つい左を向いてしまう傾向があります」

「でも僕が経験してきた日本の教育システムは、僕の目には、共同体の役に立つ『犬的人間』をつくることを、とくにはそれを超えて、団体丸ごと目的地まで導かれる『羊的人格』をつくることを目的としているようにさえ見えました」


「そしてその傾向は教育のみならず、会社や官僚組織を中心とした日本の社会システムそのものにまで及んでいるように思えます」 (P200)

技術経営コンサルタントの湯之上隆さん。こちらは日本の電機メーカーがなぜ世界市場で勝てないか、という話。ビデオニュース・ドットコム(10月10日配信)より。

「日本には均質な労働力はある、均質な技術者はある。でも『ピン』がいない。この『ピン』を排出するような教育が必要」

均質な労働者や技術者だけでは世界に通用する製品を産み、流通させることはできない。今は、そういう時代なのだという。

リーダーグループ、エリート、ピン、猫型人間…。つまり、全体に対して従順になるのではなく、自分で主体的に判断できる人をいかに育てていくのか。これからの日本社会に求められているのは、このことなのだろう。

だけど、今、日本社会では、大ぐくりなスローガンが有難がられる。判断できる個人を育てることよりも、その全体に従順な個人を作り出そうとしている。そんな気がする。

姜尚中さんの言葉。TBS『サンデーモーニング』(10月18日放送)より。

「ひとつにまとまる、秩序を重んじる、みんなの空気を読む。これは富国強兵の時代には、それなりの効率性を持ったのかもしれない」

「今は、色んな所でそれに合わせて無理をしているからモラルハザードが起きている」

「どう考えても『一億総活躍社会』というのは、その典型ではないかと思う。まだいける、まだいける、まだ動ける…。『一億』というのは、みんな一つにまとまるということの象徴ではないか。富国強兵型を脱出して、違うもう一つの日本を目指す段階にきている。もう一回元に戻ってやりなさいと言うのは無理があると思う」


改めて書いておく。

日本社会でこれから必要なのは「一億総活躍社会」というスローガンなどではない。集団主義で個人を統制することより、自分で判断・行動でき、周りと助け合える「個人」、すなわち「市民」を育てていくことをまず優先する。そんな新たな「ジャパン・ウェイ」こそが必要なんだと思う。




2015年10月16日 (金)

「どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列にすぎない」

もう少し「一億総活躍社会」について。

きのう、安倍政権が立ち上げた「1億総活躍推進室」の開所式が行われた。そこで安倍総理は、次のように語った。

「一丸となって未来に向けチームジャパンとして頑張ってほしい」

少しだけ気になったのが、「チームジャパン」というフレーズ。森元総理なら、得意の「ワン・フォー・オール~」というフレーズを口にしそうな場面である。(前回のブログ

そして、きのう雑誌『Number』(10月22日号)を読んでいたら、長嶋茂雄さんのインタビューが載っていた。五輪競技として復活する見込みの野球で、日本代表が勝つためには、どんなことが必要かについて語っている。

長嶋氏は、「フォア・ザ・フラッグ」が必要だと説く。

「何に投げる、打つ、走るだけじゃなくて、日の丸に対する気持ちを持っている人をいかに集めるかだな。そういう気持ちがあって初めて、オリンピックで負けないチームを作れるということだよね」

「日の丸を背負っているということをしっかり意識して、勝つために全力を尽くすこと」 (P49)

ここでは、「日の丸」という言葉。

気にしすぎなのかもしれないが、最近どうも、「一億総○○」だの、「チームジャパン」だの、「フォア・ザ・フラッグ」だの、「日の丸を背負う」だの、すごく大ぐくりなフレーズがあちこちで目につくようになっていないか。

もちろん「団結力」や「組織力」も必要だと思う。大切なことだし、それが無ければ、強いチームや強い共同体は作れないだろう。

しかし、大げさともいえる大ぐくりなスローガンやキャッチコピーを振りかざすことで、手始めに全体をまとめようとする風潮には、僕は強い抵抗を覚えるのである。


そうしたスローガンが大きく喧伝され、流通すればするほど、「同調圧力」が強まり、個々の多様性や異論が排除されていってしまうのではないか。

前回も紹介したラグビー元日本代表の大畑大介さんの言葉。WEBマガジン『ビープラス』 より。

「ぼくはまさに 『ラグビーは社会の縮図』 だと思っているんです」

「個人がそれぞれ伸びていかないと、チーム全体が強くなることもありえないんですよ。組織というのは個の集合体ですから、一つ一つの粒がそろって大きくならないと全体で大きくなれない」

「何ができていないのか、何が悪かったのか、どう改善していくのか。それを全員が共通認識として持って、強い個がさらに強い大きな塊になっていくのがチームワークだと、ぼくは考えているんです」


チームワークとはスローガンの押しつけで生まれるものではなく、個々の信頼によって生まれるもの。

同調圧力で全体を動かすのではない。個が集まり、それぞれの個が、自分たちで共通の意識を持ち、信頼し合うことで「全体」を構成し、動かしていく。 真に強いチーム、強い共同体は、そうやって作っていくのではないだろうか。

では…。


なぜ、昨今は大ぐくりなスローガンで人びとを動かそうとする風潮が強くなっているのだろうか。


その方が「効率が良く結果を得られる」と考えている人が多いのではないか。僕はそう思っている。

作家の村上春樹さん最新作『職業としての小説家』に、こんな言葉があった。

「想像力の対極にあるもののひとつが『効率』です」

「今からでも遅くはありません。我々はそのような『効率』という、短絡した危機的な価値観に対抗できる、自由な思考と発想の軸を、個人の中に打ち立てなければなりません。そしてその軸を、共同体=コミュニティへと伸ばしていかなければなりません」 (P212)

まさに「その通り!」なのである。

さらに、村上さんは次のようにも書いている。

「どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列にすぎない」

「言葉がひとり歩きをしてしまってはならない」 (P37)



2015年10月13日 (火)

「国際舞台で成功を収めるためには“個の力”、そして“自主性”が必要なのです」

一応、「一億総活躍社会」の話題の続き。(10月6日のブログ以降)

ラグビーの日本代表。見事な勝利を積み重ねたものの、決勝トーナメントには進めず。とても残念。

日本のラグビー界で非常に重宝されている言葉がone for all, all for oneというフレーズ。「一人はみんなのために、みんなは一つのために」というような意味だと思う。

調べてみると、日本ラグビーフットボール協会でも「ラグビー憲章」の中で「フェアプレイ」「ノーサイド」の精神とともに、この「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン」を尊重すべき精神としてオフィシャルに掲げている。

この言葉について、元日本代表の林敏之さんは次のように書く。 2019年W杯日本大会の応援サイトより。

「『ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン』という言葉をラグビーと結びつけたのは日本です」


「ノーサイド精神を大事にし、ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワンという理念を掲げてラグビーをしている国は他にないと思います」

ラグビー界では世界共通のフレーズかと思いきや、この言葉をありがたがっているのは、実は日本のラグビーだけなのである。

そうなんだ…。

そんでもって日本の政治の世界。この「ワン・フォー・オール~」のフレーズを多用するのが、ご存知、東京五輪組織委員会の会長でもある森喜朗氏である。

彼がこの言葉をどのように使っているか、ちょっと確認してみたい。

去年、ソチ五輪での記者会見(2014年2月9日)で森会長は、2020年東京五輪の組織委員会について次のように語っている。

「『ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン』の精神で、2020年大会に向けて互いに結束した強いオールジャパンの組織にしたいと思います」

その精神で強く結束したはずの組織が、新国立競技場やエンブレムの撤回というゴタゴタ騒動を巻き起こす。結束どころか、この組織では縦割りによるいい加減さ、責任回避という醜態ばかりが露呈する。

森喜朗会長は、そのソチでの発言から1年5カ月後、新国立競技場の白紙撤回を受けて、次にように述べる。日本記者クラブでの記者会見(7月22日)より。

「どこに責任があるということは非常に難しい。全体で負わなければならないと私は思う」

「誰か責任を負わす犯人みたいのを出しても何もプラスはない」

「みんな、みんなででワン・フォー・オールですよ。ラグビーの精神、ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン」


ここでも「ワン・フォー・オール~」のフレーズ。今度は、責任回帰のために、この言葉を使っている。

このフレーズで「結束」を呼びかけ、失敗したら「責任問題」をごまかす。まことに便利な言葉である。(7月24日のブログ

の大戦中で、日本政府は「国家総動員」を呼びかけた。そして、無残な敗戦の後は「一億総懺悔」を謳った。

上記の森喜朗氏の『ワン・フォー・オール~』をめぐる発言、考え方は、この70年前の構図と何ら変わりはない。

そして安倍総理の「一億総活躍社会」というフレーズも全く同じなのではないか。そんな気がしてきたのである。

ここからは、僕の勝手な想像なのであるが、今回ラグビーW杯ロンドン大会で、日本代表が見せた快進撃。その背景には、エディ・ジョーンズ監督が諍いを怒れずに、これまでの「one for all,all for one」というフレーズに隠されてきた「同調圧力」「無責任」「全体主義」などの伝統・風潮を排除して、「個の力」を尊重してきたことがあるのではないだろうか。

監督のエディ・ジョーンズ氏の言葉。NHK『おはよう日本』(1月7日放送)より。

「国際舞台で成功を収めるためには“個の力”、そして“自主性”が必要なのです」

同じくエディ氏の言葉。日本経済新聞(9月11日)より。

「過去のW杯での日本は選手の自主性があまりにも欠けていた」

日本のラグビーについて、こんな指摘もある。サイト『Number Web』(9月23日配信)より。

「『ワンフォーオール、オールフォーワン』はラグビーの理念を表す言葉ではあるが、ともすれば突出した個の力を認めないというネガティブな発想にもつながりかねない」

そして、元日本代表の名ウイング、大畑大介さんの次の言葉も載っている。

「個の力が2にも3にも上ってくれば、自ずとチーム力も上がると思う」


エディ氏と大畑氏、ともに世界のラグビーを十分に知っている人の言葉だけに興味深い。


今回のラグビー日本代表チームと同じように、日本社会としても世界で埋没しないためには、やはり「個の力」の尊重の方に重点を置いていくべきなのではないか。集団化や大括りに頼ることのない「ジャパン・ウェイ」、これが必要なのではないか。

なのに…。世界に向けて堂々と「一億総活躍社会」を謳う総理大臣。「one for all,all for one」を謳う組織委員長。「八紘一宇」を謳う国会議員…。日本の社会は、逆へ逆へと進んでいる。

だが、まだまだ方向転換は間に合う。そう思いたい。



2015年10月10日 (土)

「でも集団は時おり過ちを犯す。ありえない方向に暴走する。忖度や同調圧力が働くからだ。『僕』や『私』など一人称単数の主語を失い、代わりに『我々』や『我が国』などの集合代名詞を主語にするからだ」

もう少し「一億総活躍社会」について考えてみたい。

いろいろ調べていたら、戦前の「人口政策確立要綱」というものを知る。近衛内閣が1941年1月22日閣議決定したもの。

・内地人口を昭和35年に1億人とすること
・10年で婚姻年齢を3年早めること
・夫婦で5人の子供を産むこと

などが謳われている。国のために子供を産む…。

菅義偉・官房長官が、福山雅治さんの結婚の時に語った次のセリフを連想する。

「この結婚を機に、やはりママさんたちが『一緒に子どもを産みたい』とかっていう形で国家に貢献してくれればいいなと思っています。たくさん産んでください」

アベノミクスの新・三本の矢も出生率の向上を謳う。

そして、戦前の「人口政策確立要綱」には、次のようなことも謳われている。

「個人を基礎とする世界観を排除して、家と民族とを基礎とする世界観の確立、徹底を図ること」

当時は政府・軍部が率先して、国民の「個」より、国家という「総」を優先する価値観を推し進めようとした。

これと同じような空気が今の社会でも広がっているのではないか。そう、思う。

菅・官房長官の発言だけではない。参議院議員の三原じゅん子氏「“八紘一宇”発言」もそうだし、衆議院議員の武藤貴也氏がした次の発言もそう。

「彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく」 (ツイッター7月30日より

日本国憲法13条に保障されている「個人の尊重」。これを「利己的」として切り捨てる考え方の広まり。

こうした流れの中に安倍総理が打ち出した「一億総活躍社会」があるのではないだろうか。

森永卓郎さんも、次のように述べる。文化放送『ゴールデンラジオ』(10月5日放送)より。

「安倍総理は次は憲法改定に乗り出してくる。そこで何を議論しなければいけないか。最大のポイントは、個人をベースに社会を見るのか、国家をベースに社会を見るのか、ということ」

やはり僕たちは忘れてはいけない。かつての日本が「大括りにした社会」を推し進めたあげく犯してしまったことを。

作家の森達也さんの指摘をいくつか。

「でも集団は時おり過ちを犯す。ありえない方向に暴走する。忖度や同調圧力が働くからだ。『僕』や『私』など一人称単数の主語を失い、代わりに『我々』や『我が国』などの集合代名詞を主語にするからだ。主語が大きくて強くなれば述語も勇ましくなる。葛藤や煩悶や内省が薄くなる」 (著書『「テロに屈するな!」に屈するな』P49より)

「集団の過ちは当然ながら規模が大きくなる。集団に帰属することで、人は一人称単数の主語を失うからだ『私』や『僕』が『我々』や『わが組織(国家)』などに変換されることで、述語の抑制がきかなくなる。要するに『イケイケ』になる」 (雑誌『現代思想』2月号より)

「集団つまり『群れ』。群れはイワシやカモを見ればわかるように、全員が同じ方向に動く。違う動きをする個体は排斥したくなる。そして共通の敵を求め始める」

「群れの中にいると、方向や速度がわからなくなる。周囲がすべて同じ方向に同じ速度で動くから。だから暴走が始まっても気づかない。そして大きな過ちを犯す」 (朝日新聞2月11日より)

そして歴史学者の加藤陽子さん言葉。毎日新聞夕刊(2013年8月22日)より。

「この国には、いったん転がり始めたら同調圧力が強まり、歯止めが利かなくなる傾向がある」

この国は大きな失敗を犯した。だからこそ「個人の尊重」などを謳う日本国憲法というものが出来た。改憲にしろ護憲にしろ、このことは忘れるべきではない。



2015年10月 9日 (金)

「形容詞を使う政治家に強い嫌悪と恐怖を感じるんです」

前回のブログの追加分として。

きのうのブログ(10月8日)では、「一億総活躍担当大臣」の英語表記を『The Japan Times』からの引用で紹介した。

その後、『The Wall Street Journal』(10月8日)が興味深い記事を載せている。

Lost in Translation: ‘100 Million’ Minister to Drive Abenomics 2.0
というタイトル。訳せば、「アベノミクス第2弾の『1億人』
大臣は翻訳不能」。この大臣を正確に英語にするのは無理、という非常に興味深い記事である。

まさにあいまいな言葉なのである。


そして、安倍政権の「言葉遣い」についての森本毅郎さんの指摘。TBSラジオ『スタンバイ』(10月9日放送)より。

「安倍さんの政権になってからの言葉…。安倍さんの語る言葉が浮く」

「個性なのかもしれないが、女性活躍担当大臣とか、一億総活躍担当大臣とか、壮大な言葉を並べたてるんだけど、逆に見えなくなってしまう」

「空疎なんですよね」


もうひとつ。作家の保阪正康さんの言葉も。毎日新聞(9月30日)より。

「形容詞を使う政治家に強い嫌悪と恐怖を感じるんです。形容詞は人を動かし、ある種の暴力へとヒトを追い立てるから、形容詞や美辞麗句を多用するのは、ヒトラーが用いたファシストの手法です」

2015年10月 8日 (木)

「あやふやな言葉を使うな、あやふやな言葉を使うやつを信用するな」

前回の続き。

安倍総理が内閣改造を行った。本当に「一億総活躍担当大臣」というのができた。この大臣は何をするのだろうか。バカらしいというか、恐ろしいというか。

このブログでは、政治の世界における言葉の劣化については何度も書いてきた。(2013年11月21日など)(「言葉・言語力」

政治家の言葉に対するテイストが、ますますヤンキー的になっている気がする。これは何かのシグナルというか、警鐘なのではないか。個人的にはそう思う。そのうち「一億総イキイキ社会」とか言いそう…。

ちなみにこの「一億総活躍担当大臣」、英語では、「minister for measures to help create a society in which all members can play active roles」(The     Japan Times より)。こうなると、なんだかなあというしかない。

ジャーナリストの伊藤惇夫さん文化放送『くにまるジャパン』(10月8日放送)より。

「安倍政権は、スローガンやネーミングが好き」

「政治は言葉。言葉で引っ張っていくのは大事。でもその言葉を少しずつ実現させていくのが政治」

「政治は全て結果。という意味では、いつまでもスローガンとか新しいキャッチコピーとかネーミングで何とかなると思っているのは間違い」


今回は、「言葉」についての「言葉」を並べてみる。

SEALDsの奥田愛基さんの父親で、牧師の奥田知志さん毎日新聞(10月2日)より。

「私たちの国では大人が『言葉』を失いつつあるのではないか」

政治学者の山口二郎さんの言葉。著書『若者のための政治マニュアル』より。

「あやふやな言葉を使うな、あやふやな言葉を使うやつを信用するな」 (P113)

作家の高村薫さん東京新聞(9月18日)より。

「事実を隠すための不正確、不透明な文言。何とも結局説明がつかない、『存立危機事態』とか『後方支援』とか。事実をごまかす、隠すために不正確、不透明な文言でそれを説明するから、当然支離滅裂、意味不明なことになる」

森達也さん。安倍総理の言葉遣いについて。著書『「テロに屈するな!」に屈するな』から。

「『まさに』『絶対に』『はっきり申し上げておきたい』など、それ自体には意味のない常套句に意味なく強調されながら、戦後70年保持されてきたこの国のレジームは大きく転換しようとしている」 (P14)


内田樹さん著書『内田樹の大市民講座』より。

「今の日本の政治過程の劣化は単に『言葉の劣化』として現象しているように私には見える。政治を語る『言葉』に厚みがないのだ。『私は100%正しく、私の反対者は100%間違っている』という恐ろしいほどにシンプルで底の浅い言明があらゆる論件について繰り返されている」 (P80)




2015年10月 7日 (水)

「どうか、どうか政治家の先生たちも、個人でいてください」

前回(10月6日)のブログの続き。安倍総理が表明した「一億総活躍社会」について。

世田谷区長の保阪展人さんTHE HUFFINGTON POST』(10月6日配信) より。


「『一億総活躍』という言葉が上滑りするのは、国民全体を無理矢理に大風呂敷に包みこもうとする粗雑さにあると思います」

「『多様性の相互承認』がテーマの時代に、戦争中の国威発揚のスローガンにも通じる『一億総活躍』の語感には、過去に回帰していくようなにおいも漂います」

「政治が国民に号令をかける時代ではありません」


山口大学の政治学者、纐纈厚さんの指摘。東京新聞(10月3日)より。

「『一億』という言葉には、異端者や異なる意見を排除し、一つの価値観で動く国民という意味が込められている」

いずれも、その通り。深く首肯する。

安倍総理の周囲に、この言葉に違和感を持つ人はいなかったのだろうか。

前回のブログで紹介した朝日新聞(10月1日)の天声人語の言葉に、次のフレーズがあった。

「『総』は、『個』の対極にある」

この指摘は、深くて重要なことだと思う。言い換えれば、「『全体化と単純化』は、『個別化と複雑性』の対極である」とも言える。

「個」について、連想する言葉がある。

それはSEALDsの奥田愛基さんの言葉。参議院中央公聴会(9月15日)に呼ばれ、彼が意見陳述で述べた言葉はとても印象的だった。

「最後に、私からのお願いです。SEALDsの一員ではなく、個人としての、一人の人間としてのお願いです」

「どうか、どうか政治家の先生たちも、個人でいてください。政治家である前に、派閥に属する前に、グループに属する前に、たった一人の『個』であってください。自分の信じる正しさに向かい、勇気を持って孤独に思考し、判断し、行動してください」


奥田さんは、あくまで「個」として自分の意見を表明し、それを受け取る側の政治家たちにも「個」であることを求めている。

次のようにも語る。『民主主義ってなんだ?』(著・高橋源一郎×SEALDs)より。

「僕が思う民主主義というのは、エライ人になんでも任せっぱなしで文句いうだけじゃなくて、色んな人がいる社会の中でどうやって生きていくか、個人として引き受けて、考えたり、発言したりし続けること。まあそれってかなりめんどくさいのですが() (P155)

「その主体者は個人でないといけないと思うんですよ。だれかが言ったからじゃなくて、自分の意思として引き受けるのが大事」 (P155)

民主主義とは、それぞれの「個」や「個人」の考えや立場がぶつかり合うことで「公」を作っていくことにほかならない。

政治学者の宇野重規さんの次の言葉も重なる。著書『<私>時代のデモクラシー』より。

「一人ひとりが真に自らの<私>と向き合うこと、その上で、<私>に立脚して声をあげることこそが、デモクラシーの機能を活性化させる上で不可欠であるということ」

大風呂敷でひと括りにしようとする風潮に危機感を覚え、「個人」として声を挙げ、そして「個人」同士がつながる。それが「SEALDs」の活動なのだろう。その意味で、彼らの活動は、まさに安倍総理が進めようとする「一億総○○社会」の対極にあり、それに対する大きな警鐘となっているのだと思う。



2015年10月 6日 (火)

「『1億総活躍』社会と聞いて直ちに感じたのは、まさに違和感だった」

久々のブログ更新となってしまったが、書きたいことは山のようにあるのだが、整理が追いつかない。

少し時間が経つが、先月24日の安倍総理の記者会見で耳に飛び込んできたのが次の言葉。

「目指すは『一億総活躍』社会であります」

一億総活躍社会…。

最初は正直、理解が出来なかった。次に思ったのが、きっと冗談としてこのフレーズを使っているのだろうということ。だが、どうも安倍総理は、マジに使っているようである。

先週の朝日新聞(10月1日)の「天声人語」の文章が、その時の僕の思いを代弁している。

「『1億総活躍』社会と聞いて直ちに感じたのは、まさに違和感だった」

「『総』は、『個』の対極にある。総活躍は個々の国民を一くくりにして上から号令をかけているかのようにも聞こえる」

僕もこの言葉に感じるのは、違和感以外の何ものででもない。わざわざこの言葉を使う意図は…、そもそも「総活躍」とは何なのだろう…。いろんな違和感、疑問が湧いてくる。

この「一億総活躍社会」という言葉についてのコラムニストの小田嶋隆さんのコメント。TBSラジオ『たまむすび』(10月5日放送)より。

「政府が“一億総○○”を使うのは、それこそ戦前の『一億総決起』以来のできごとです。まるで国策標語です。『進め!一億火の玉』みたいです」

また小田嶋さんは、次のようにも書いている。日経ビジネス・オンライン(10月2日配信)より。

「この言い方は、『一億』の中にある『個性』を捨象し、一人ひとりの個々の国民が備えている『多様性』や『個別性』をきれいに黙殺する結果をもたらす」

「つまり、『一億』は、一国の国民をひとかたまりの粘土のごときものとして扱う人間が使う接頭辞で、その言葉で名指しされた国民は、個人の顔を喪失せざるを得ないのである」


今、日本では、すべてを「総」という概念で括ろうとする風潮がどんどん広がっているのではないか。

きのうから施行された「マイナンバー」も、日本語にすれば「国民総背番号制」。ここでも「総」という文字が顔を出す。また、合意したというTPPにしても、「包括的経済圏」という個々の地域性をひとくくりにしようという動きである。

実際、「八紘一宇」など大きく括るキャッチフレーズばかりを政治家たちが口にするようになっている。(3月20日のブログ

間違いなく大きく括る風潮の中で抹殺されていくのが「個」であり、「個人」である。

安倍総理が提唱した「一億総活躍社会」とは、「個別性と複雑性」を排除し、さらも「全体化と単純化」を進めることの宣言なのではないか。(3月27日のブログ

次の指摘を思い出した。京都大学人文科学研究所の藤原辰史さん朝日新聞(3月24日)の記事『食と国家』より。

「ナチス・ドイツの政策に『アイントップの日曜日』があります。秋冬の第1日曜日には、みんなそろって質素な雑炊を食べよう、という官製運動です」

「国民全体が同じ日に同じものを食べることに潜む意図です。ヒトラーが強調したのは『一つ』です。『一つの民族、一つの総統、一つの国家』。食べることで一つになり、排他性を産みだす」


安倍総理の打ち出した「一億総○○」には、ヒトラーの「一つ」につながるものがあるのではないか…。


考えすぎかもしれないが、戦前の日本も、国民を総動員し、ひとくくりにした結果、戦争への道を止まることなく転がり落ちていったのである。

この話、次回も続けてみたい。

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