「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」
今回も「否定性の否定」について。
先日の読売新聞(2月13日)に、「放送法遵守を求める視聴者の会」の意見広告が載っていた。
『視聴者の目は、ごまかせない』との見出しに、女性の大きな瞳の写真…。
そこには、こんなフレーズがある。
「『放送法遵守を求める視聴者の会』は、圧倒的な力をもつテレビ局に対して、視聴者の立場から声を上げ、問題点を具体的に明らかにすることを通じて、放送法を遵守する活動を開始しました」
何だかなあ。ザラッとした気持ち悪さしか感じない。
こうした動きは、永田町でも強まっている。安倍総理や高市総務大臣など、メディアに圧力をかけるような発言を繰り返す。
本来、メディアの役割というのは、権力や権威といったものを批判し、チェックすることである。つまりは「否定」の役割である。
安倍政権やそれを取り巻く人たちが強力に進めようとしているのが、このメディアに対する「否定性の否定」なのである。
一方でメディア側も、保守系メディアが安倍政権の賛美・追認を繰り返すなど、本来の役割を放棄する。
テレビ・メディアもしかり。権力に厳しい視線を向けるキャスターは消え、またニュース番組そのものが減り、現状追認するようなバラエティばかりが番組表を埋めている。
そしてメディアの経営者たちは進んで安倍総理と食事を共にし、何度も会合を繰り返す。
ジャーナリストの田中龍作さんの指摘。ブログ『BLOGOS』(2015年1月15日)より。
「報道の中立公平・不偏不党の原則からしてもおかしい。国際常識に照らし合わせても奇異である」
「安倍首相と食事を共にするメディアが、政権を批判しないことだけは揺るぎのない事実である」
メディアを覆い、そして囲い込む「否定性の否定」の風潮。やれやれ、である。
メディアについて、もう一度、思い出すべきことがある。そんな言葉を並べてみる。
先日の甘利氏の記者会見(1月28日)におけるジャーナリストたちの姿について、元朝日新聞記者の山田厚史さんは次のように書いている。弁護士ネット(1月28日) より。
「この記者会見は多くの国民が関心を持っているので、ジャーナリストがその代弁者となって追及しないといけない。そのときに、仲間の論理のような馴れ合いの質問をしていたら、ジャーナリズムの命を失う」
「こういう記者会見に出て、質問を浴びせるのがジャーナリストだと思う。新聞記者がこんなことをやっていたら、本当に情けない。今回の記者会見で、権力を監視するジャーナリズムの力が落ちているなと感じた」
元拉致被害者家族会事務局長の蓮池透さん。東京新聞(1月14日)より。
「メディアは批判してこそ価値がある。権力者も批判されてこそ権力者。現在は首相批判がタブーとされている空気さえ感じる」
こんな57歳会社員の投書も見た。東京新聞の投書欄(1月25日)より。
「報道機関の本懐は、大事の時、国家権力に待ったをかけられるか、待ったの声を上げることができるか否かにある」
ジャーナリストの上杉隆さん。著書『ニュースをネットで読むと「バカ」になる』より。
「ジャーナリズムの仕事は政府を始めとする公権力が隠そうとする事実を暴くことうにあるというのは万国共通の考えである。しかし、日本のメディアはそうした役割を放棄してしまっているどころか、国民の知る権利を否定するかのように政府側の情報操作に協力し続けている」 (P188)
同じくジャーナリストの鳥越俊太郎さん。朝日新聞夕刊(2月15日)より。
「40代で1年間、米国の新聞社で働いた経験から言わせてもらうと、米国では権力者が国民の税金を正しく使っているか、しっかり監視する人をジャーナリストと呼ぶんです。日本では、権力の監視をしない人までジャーナリストと言う。本当の意味が理解されていないんですよ」
作家の半藤一利さん。朝日新聞(2015年2月28日)より。
「国民の幸せが、日本が民主主義国家であり続けることだとするなら、ジャーナリズム、言論の自由の存在が一番大切な条件と思います。ジャーナリズムが時の権力者を厳しく監視することが、腐敗や暴走を防ぐからですが、言うはやすく、実際は大変難しい」
作家のジョージ・オーウェルの有名な言葉。日本外国特派員協会より。
「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」
否定性の否定…。この風潮に対して、メディアやジャーナリズムには、最後まで抗って欲しい。また同時に、新しい手法・訴え方を見出してほしい。