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2016年3月の記事

2016年3月26日 (土)

「誰かに任せておくのではなく、地域や国について自分なりに考え、おかしいと思ったら口に出していく。それは『公』を取り戻していく作業だと思います」

前回のブログ(3月15日)に続き、新たに印象に残った「復興」にまつわる言葉を並べます。

宮城・名取市で学習支援塾を経営する工藤博康さんの言葉。朝日新聞(3月25日)の特殊記事『災後考 6年目の先に』より。

「復興、復興と、何だか16ビートで追い立てられ続けているというか…」

「記憶も流されていき、いまも『失い続けている』という感じです。復興という言葉に励まされる人もいるし、それぞれにあっていいと思うんですよね」


同じ記事(朝日新聞3月25日)より。仙台市の出版社・荒蝦夷の土方正志さんの言葉。

 「どうしても東京発の『復興』への違和感が消えない」

「被災地の実態を東京の人に伝えようとしても、使う言葉の意味が違っている。外国文学のように注釈が必要なのではと思うことがある」


社会学者の宮台真司さんの指摘。ビデオニュース・ドットコム(3月19日配信)より。

「今、東北でやろうとしている動き。釜石や沖縄にも巨大な動きがある。これは結局、どの地域も安心・安全・便利・快適という国が決めた標準に近づけていきましょう。標準を超えましょうということ。こうなると、人はより便利な場所に行く、より所得の高い場所に行く」

「どこも入れ替え可能だから。安心・安全・便利・快適というのは利害損得と同じこと。文化と関係ない。道徳的連帯と関係ない。より便利安心、より所得の高いところに出て行ってしまう」


この指摘は、宮城県在住の作家・熊谷達也さん小説『潮の音、空の青、海の詩』の中語られる次のセリフにも通じる。気仙沼市をモデルにした仙河海市に住む「待人の爺さん」による言葉。

「つまり、大漁旗を掲げて船が港に出入りする光景は、仙河海市民には日常のものになっていたわけだ。それが、巨大防潮堤ができたことで、日常から切り離されてしまった。最後の砦とも言えた仙河海市民の精神的な拠り所が、これで消滅してしまったんじゃ」

「内湾の光景と言うアイデンティーを失くしてしまったことで、この街に暮らす人々自身が自分たちの街に魅力を感じなくなっていった」 (P352)

私たちは、安全・安心・便利・快適を求めるあまり、多くのものを失っていないか…。

ドキュメンタリー映画監督の海南友子さんは、東日本大震災後の我々のすべきことについて次のように語る。朝日新聞(3月12日)より。

「誰かに任せておくのではなく、地域や国について自分なりに考え、おかしいと思ったら口に出していく。それは『公』を取り戻していく作業だと思います。そしてそこから、『公』も変わっていくのではないだろうか―」

2016年3月15日 (火)

「気がつけばお役所発注の巨大防潮堤ばかりができている。これでは。ますます忘れてしまわないか、心配です」

今年も3月11日には、宮城・気仙沼市のお伊勢浜海岸で行われた集中捜索活動に参加した。

ボランティア活動のあと、慰霊祭で献花をさせていただき、町はずれにあるその会場から中心部まで2時間あまり歩きながら、いろいろ考えた。

あれから5年である。

気仙沼市内でも巨大な防潮堤や高層の公営住宅も次々と完成に近づいている。いわゆる「復興」が進んでいることになる。

ただ去年も感じたこと(2015年3月13日のブログ)だが、その街の姿には「違和感」ばかりが募る。この先、この街はどういう姿になって行くのか…。

養老孟司さんの言葉。朝日新聞(3月11日)より。

「むしろ、今後の被災地で懸念されるのは、その他の地域の記憶から、忘れ去られることです」

「気がつけばお役所発注の巨大防潮堤ばかりができている。これでは。ますます忘れてしまわないか、心配です」


精神科医の斎藤環さんの次の言葉とも重なる。毎日新聞(3月8日)より。

「忘却に抗するインフラを作らないと被災者は置き去りになる」

社会学者の宮台真司さんの次の指摘も、ストンと腑に落ちる。TBSラジオ『デイキャッチ』(3月11日放送)より。


「その場所が安心安全便利快適だけだと、人はより快適な場所に出て行ってしまう。街が一つの生き物として段々展開していくプロセスが大事」

「街が機能で評価されるなら、人の尊厳はそこでは保たれない。より便利な場所に出て行ってしまって終わり。街が人の予想を超えた生き物だから、歴史を感じさせる街もそう、下北沢や吉祥寺が人気あるのも、都市計画によって作られたというよりも、自然に広がっていったから」

「所詮、『機能』なんていうものは、その時の当座の人の便利さを考えて作った『箱』ですから、時間の流れでどんどん風化して基本的にはガラクタになっていく。日本の箱ものは、ほとんどガラクタになっていく。その経験を我々は散々しているはずなのに、また新しいゲームに変えるチャンスだったのに、変えられず。従来のゲームをまた『復興』と称して繰り返しているだけなのが、現在の実態です」


僕が、定点観測のように毎年気仙沼市で見ている「復興」による街づくり。どんな姿になって行くのだろうか。誰かが、全体像、グランドデザインを描いてそれに導いているのだろうか。

残念ながら、そうは思えない。住民だけでなく、市長などの政治家も含め、誰も、どういう街が出来上がっていくのか想像できていないのではないか。今や勝手に動き出した「システム」が、さらに自然や人々の暮らしを蹂躙しながら、誰も意図しない街を作っているのではないか。そう思えて仕方ない。

新しい国立競技場の聖火台の問題について、宮台真司さんが指摘していたことは、そのまま「復興」にも当てはまる。TBSラジオ『デイキャッチ』(3月4日放送)より。

「各自が自分に与えられた権限の範囲で考えているだけで、基本的に全体像をイメージする人がいなかった」

「これは以前の戦争、大東亜戦争、太平洋戦争の時にも問題になったこと。セクショナリズムが存在し、手続き主義が存在し、各自がその中で、カッコつきの『頑張っている』のでしょうけど、全体像を見渡す人がいない。本当はそれを政治が、政治の機能を果たす何かが行うべきなんですが、そういう部署が日本にはないということ」


こちらも宮台真司さんビデオニュース・ドットコム『大震災でも変われない日本が存続するための処方箋』(3月12日配信)より。

「行政官僚の各々は、自分たちの、自分の職掌(ロール)を一所懸命果たしている。それが組み合わさって全体になるはず。なのに、全体を見る人がいない。全体を見て指令する人がいない。誰も全体を観察していない。そんな状態で、みんな『私は仕事をちゃんとしている』と思っている。これが病」

「ふつうは全体を観察するのが政治の機能。政治家の機能でもある。基本的にみんな部分的な最適化しかしない。だから全体としては合成の誤謬となる」


「競技場はオリンピックのために作る。それなのに聖火台を作ることをだれも考えていなかった…。これはすごいこと」 (パート①27分ごろ)

政治学者の小熊英二さんも同じ指摘をする。朝日新聞(3月9日)より。

「役人は仕事熱心で、被災者は我慢強く従い、国民も善意にあふれている。なのに、なんでうまくいかないのか。そう聞かれる。私が思うに、それぞれの部局ではみんな頑張っていても、全体を見て大局的な判断をする人がいないのです」


部分的な最適化だけが行われてしまい、全体は誰も望まない方向に進む。被災地、原発、五輪会場…、こうしたことがアチコチで行われている。これが日本の病なのだろう。

改めて、宮台真司さんTBSラジオ『デイキャッチ』(3月11日放送)より。

「3・11以降の東北で起きていることは、今後日本で起こることのひな形なんです。今後、日本がいろんなところで立ちゆかなくなった時に、例えば東北が新しいゲームを初めて復興することに成功していれば、それを見本にして僕たちも新しいゲームを始められるんですけど。残念ながら東北が見本を示すチャンスを政治と行政が完全に潰してしまいました。同じことがおそらく東北以外の場所でもこれから起こっていく可能性が高い」




2016年3月 9日 (水)

「日記をつけることで、実に多くのことを、葬り去る」

今回は、ちょっと「雑感」として。

このブログは、目についた「言葉」のメモがわりに始めたもの。そして自分が日々、どんな言葉が気になっているか、の「日記」のつもりで、タイトルに「その日記」と付け加えた。

そんな言葉をいくつか並べると、ひとつの「文脈」が生まれ、それまで自分には見えてなかったものが見えたりする。

今回は、このブログを書いていく上での自分の気持ちと重なる言葉を並べてみたい。

先日、日本映画のアカデミー賞が発表され、最優秀作品賞には映画『海街diary』が選ばれた。僕も好きな作品で、このブログでも取り上げた。(2015年6月24日と、7月23日のブログ

その監督、是枝裕和さんの言葉。雑誌『SWITCH』(2015年6月号)より。

「タイトルの『海街』という言葉、そしてそこに『ダイアリー』という言葉がついている」

「『海街物語』ではなく『海街ダイアリー』であるということ、つまり日々の時間が積み重なっていく街のはなしだという、その印象を残したいなと思いました」


「四人の姉妹がいて、彼女たちの住んでいる家があり、その周りに街がある。そうやって物語とともに広がっていく風景の中に、人がどういるか、どう自分の居場所を見つけるか、という話だと思ったんです」 (P52)

そう。このブログも、言葉が、そして自分自身が、どう居場所を見つけていくか。そんな感じ。

言語学者の外山滋比古さん著書『知的生活習慣』より。

「情報化時代といわれる時代、頭に入ってくるものも、かつてとは比較にならないほど多くなっているに違いない」

「いかに賢く忘れるかは、昔の人の知らなかった今の人間の課題である」

「忘れ方にもいろいろあるが、文字に書いてみると、忘れやすい、ということをうまく利用するのである。そう考えると、日記は心覚えのために付けるのではなく、むしろ、忘れて頭を整理する効用のあることがわかってくる」


「日記をつけることで、実に多くのことを、葬り去る。小さなことまで書くスペースもないし、時間もない。ここで、多くのことが捨てられる」 (P26)

「そして書き留めておけば、心のどこかで、“もう安心、記録してある”とささやく声がして、本人は知らないが、ゴミ出しが進む。日記をつけ終わったとき、一種の快感を覚えるのは、忘却、ゴミ出しがすんで、気分が爽快になることのあらわれだと解することができる」

「いらぬことを忘れぬために日記はある」 (P27)

そうそう、そうなのである。

そして、作家の高橋源一郎さん『朝日新聞DIGITAL』(1月28日配信) での、鷲尾清一さんとの『折々のことば』についての対談から。

「僕も『折々の社会のことば』を探しているわけです。探してみると、こんなところにあるの?と思うようなところで見つかる。その人がきちんと生きてきたということを、説明している言葉、あるいは説明はしにくいけれど、何かが伝わるような言葉がある」

「一番大切なのは、こういう言葉を聞くとかすかに抵抗がある、言う時に抵抗がある、っていう自分の中の抵抗感です。それが言葉との付き合い方かなと」


わかる。そんな感じ。

すいません。
今日は、このブログの意義を自分で確認するために言葉を並べてみました。



2016年3月 7日 (月)

「自らの無能力に本心では気づいているがゆえの苛立ちが、攻撃的衝撃となって現れる」

ここ数週間、「否定性の否定」をキーワードにいろいろ考えてみた。

そこで気づいたのが、「否定性の否定」というキーワードと、昨今、話題になっている「反知性主義」というキーワードが重なるのではないか、ということ。

そんなことを考えさせてくれる言葉をいくつか並べてみたい。

例えば、立教大学大学院総長の吉岡知哉さんは次のように言う。2011年度大学院学位授与式 より。

「『考える』という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です」

ジャーナリストの池上彰さんは次のような言い方をする。TFM『未来授業』(2013年12月23日)より。

「学問の場においては、徹底して批判的に物事を見なければいけないと思います」

「学問においては常にすべてを疑うことが大事ですが、それを実生活に置き換えると、どんどん人間関係が狭くなっていってしまいます。ですから私はそんなとき『適度な懐疑心』が必要だという言い方をします」

日新聞記者の三浦英之さん。かつて満州国に存在した建国大学の元学生を取材して歩いて書いたノンフィクション作品『五色の虹』。そこに、こんな言葉があった。

「『衝突を恐れるな』とある建国大学出身者は言った。『知ることは傷つくことだ。傷つくことは知ることだ』彼らの言葉が、その後の私の進路を決定づけた」 (P326)

作家の平川克美さんがシリコンバレーで感じたこと。著書『「消費」をやめる』より。

「わたしからすれば、『そこに何かが足りない』という感じが拭えません。何が足りないかと言えば、物事を批判的に捉え、徹底的に思考しようとする知性です。シリコンバレーに充満するアメリカ的起業精神には、知性が決定的に欠けていると感じていました」 (P97)

「そういう場所では、知性を求める態度は軽蔑の対象になります。理屈をこねくり回して何もしない人間だとバカにされます。思索を深めてもお金にはならないからです」

つまり「考える」という行為そのものがもともと、反時代的・反社会的、すなわち「否定性」の機能を持っている。

しかし、その「考えること」や「教養」といったものさえも、「お金にならない」「効率を悪くする」といった理由から忌避され、さらにはバカにされ、そして排除される。

これが「反知性主義」の風潮なのである。

その反知性主義が広がり、お笑いだけでなく、文学、若者、野党、メディア、憲法、日本社会のあらゆる分野から「否定性」が否定、つまり排除されていく。

ここで言う「否定性」には、反論や反対の表明だけでなく、チェック機能、歯止め、反骨心、批評・批判、パロディ、皮肉なども含まれる。


色んな「否定性」が社会から排除された結果、我々は権力が暴走しないようにするための「歯止め」も失う。言い換えれば、権力はいつ暴走してもおかしくない状況になっている。

 政治学者の白井聡さんの指摘。著書『「開戦前夜」のファシズムに抗して』より。

「だから安倍氏はある意味で日本人を代表してしまっているのだ。ただし、問題は軍事的なもののみに関わるのではない。安倍氏が代表する『日本人』とは、正確に言えば、『ニッポンのオッサン』である」

「『ニッポンのオッサン』は、日々その無能力(=不能)を証明されているようなものだ。にもかかわらず、社会のあらゆる領域で彼らは権力を手放そうとせず、まさにそのことが社会変革を妨げ、極端な少子化に代表される閉塞をつくり出している。強がっているが裸の王様である。自らの無能力に本心では気づいているがゆえの苛立ちが、攻撃的衝撃となって現れる。だから、インポマッチョは質が悪いと評さざるをえないのだ」 (P131)

 作家の辺見庸さん著書『流砂のなかで』より。

「それをうちのめす力が、今のマスメディアにせよ、学会にせよ、言論界にせよ、あまりにもなさすぎる。突破口の糸口さえない。そのことにもだえ苦しむことさえない。そうこうするうちに、何かとんでもないことが起こるだろうと思っているんですけどね」 (P96)


2016年3月 5日 (土)

「いつ『反社会』という言葉が、『反国家』とすり替わって、権力に対して異議申し立てをすることも『反社会的』とされてしまうことになるか、その怖さが今の社会にあると感じます」

そのほか、「否定性の否定」にまつわる印象に残った言葉を並べておきたい。

民主党の山尾しおり・衆議院議員の指摘。自身のブログ(2月15日)より。

「少なくとも、メディアと政権与党とが対峙する状態を維持していることについて、私たち日本人は誇りを持つべきですし、その状態を維持するために努力を続けるべきだし、綻びが見えたときには戦うべきだと思います」

この言葉で思い出したのが、話題のドキュメンタリー映画『ヤクザと憲法』。映画の中で、21歳の見習いの組員が呟く言葉。

「あっちではあいつが気に入らない、こっちではあいつが気に入らない。そう思いながらどちらも共存する社会が本当に良い社会なのではないか」

この映画で出てくる暴力団の顧問弁護士を務めてきた山之内幸夫さんは、有罪判決を受け次のように話す。

「社会から消えろ、と言われているようだ」

ヤクザという反社会的な存在は、今、暴排条例等々で徹底的に排除されている。これも「否定性の否定」。

『憲法を考える映画の会』の花崎哲さんのこの映画を受けての言葉。法学館憲法研究所のHP より。

「いつ『反社会』という言葉が、『反国家』とすり替わって、権力に対して異議申し立てをすることも『反社会的』とされてしまうことになるか、その怖さが今の社会にあると感じます」

話は飛ぶが、この映画のタイトルにも入っている「憲法」についても。

社民党の福嶋みずほ・衆議院議員の指摘。著書『「意地悪」化する日本』より。

「自民党の改憲草案も、国家権力ではなく国民を縛るものになっていて、とても憲法とは呼べない代物です。自民党は憲法のない社会を作りたいのです。つまり俺たちの権力を縛る憲法は不要だということです」 (P141)

憲法というものも、本来、権力を縛るもの。国家権力にとっては「否定性」の機能を持つものである。

安倍総理は、この憲法、そして立憲主義をないがしろにしてきた。否定性の否定。

改めて立憲主義について。弁護士の伊藤真さん著書『憲法問題 なぜ今、憲法改正なのか』より。

「じつは憲法は、国家を縛るルールです。社会の秩序がめちゃくちゃにならないように法律が市民を取り締まるのと同じように、国家がおかしなことをしないように一定のルールを課す。それが憲法の役目なのです」

「では、どうして国家を縛るルールが必要なのでしょうか。それは、ときに国家権力が暴走して、私たちの生活を脅かすことがあるからです」

「このように憲法によって国家を律して政治を行うことを、『立憲主義』といいます。近代国家は立憲主義にもとづいて政治が行われています。つまり、およそ近代国家と呼ばれる国はどこでも、国家権力に制限をかける憲法を持っていることになります」


メディア、そして憲法…、その「否定性」の機能は権力の暴走を防ぐためのもの。


2016年3月 3日 (木)

「ジャーナリズムは死にかけている。何よりも恐ろしいのは権力の意向をメディアがそんたくして追従することだ」

メディア・ジャーナリズムの本来の役割は、権力にとって「否定性」の存在であること。前回のブログ(2月21日)では、そんなメディアについての言葉を並べた。

今回は、その追加分を改めて。

今週(2月29日)、高市総務大臣の発言について、6人のジャーナリストの抗議の記者会見を行った。その中での鳥越俊太郎さんの言葉。サイト『THE PAGE』(2月29日配信)より。

「最近の安倍政権になってから以降のメディアと政権のありようを見ると、一方的に安倍政権側が、つまり国民の負託を受けて、委託を受けて政権をチェックするはずのメディアが、マスコミがテレビや新聞などが、逆に政権によってチェックされてる」

同じ会見での岸井成格さんの言葉。

「権力っていうのは絶対的権力であり、権力が強くなればなるほど必ず腐敗し、時に暴走するんです。必ずです。これはもう、政治の鉄則なんです。それをさせてはならないっていうのがジャーナリズムの役割なんですよね」

「必ずチェックし、ブレーキをかけ、そして止めるというのが、これがジャーナリズムの公平、公正なんです。それを忘れたジャーナリズムはジャーナリズムじゃないんですよ」


ジャーナリストの青木理さんTBSラジオ『デイキャッチ』(2月29日放送)より。

「メディアの役割は何かと言えば、政権に対して常に緊張関係を持ち、是々非々でもいいから、おかしいことがあれば“おかしい”とキチンと言うこと」

ジャーナリストの斎藤貴男さん著書『ジャーナリストという仕事』より。

「では、ジャーナリストの役割とは何でしょうか。いきなり結論めいた話ですが、私は『権力のチェック』が最大にして最低限の機能だと思っています」 (P3)

「そうした権力というものは、よいこともたくさんしてくれますが、ときに暴走して、普通の人間の暮らしを踏みにじる場合があるからです。とくに悪意がなくても、結果的にそうなってしまう心配も少なくありません」 (P4)

「くり返しますが、ジャーナリズムの基本的な役割は『権力のチェック』であるはずです。権力を批判することが『国益を損ねる』というのであれば、ジャーナリズムなど必要ありません」

「『国益』とは何でしょう。権力の横暴を批判し、正しくしていくことこそが、ジャーナリズムが果たすべき『国益』です」 (P201)

メディア・ジャーナリズムの役割は権力のチェック…。どれも当たり前の指摘である。

しかし、批判される現在の権力者たちは、そんなメディア・ジャーナリズムの持つ「否定性」の機能を押さえつけ、排除しようとしている。

斎藤貴男さんは、次のようにも書く。

「わたし自身が年をとったせいもありますが、いわゆる偉い人たちが、そろいもそろって軽すぎる。エリートの自負どころか、批判する奴はみんな敵だ、覚えてろよ、訴えてやるからなと、こうなってしまう人たちが珍しくもなくなっているのですから」 P90)

そして内田樹さん著書『「意地悪」化する日本』より。

「耳障りなことを具申すると、『おまえの話は聞きたくない』となってしまうんでしょうね。あるいは、聞いてもわからないのか……」 (P77)

まさに、否定性の否定…。

また、先の大戦で、新聞が行ったことについても斎藤貴男さんは書いている。

当初、新聞は戦争を進める政府を批判し、慎重論を唱えた。しかし権力側が言論弾圧を強めていく中で、新聞自身も自ら「批判」という役割を捨てる。そして戦争を煽った方が売れるという判断をすることで、自分の組織を守ろうとした。


作家の半藤一利さんも次のように書く。著書『B面昭和史』より。

「どの新聞も軍部支持で社説を統一し、多様性を失い、一つの論にまとまり、『新聞の力』を自ら放棄した」 (P117)

「それに戦争は新聞経営には追い風になるのである」 (P117)

「この新聞とラジオの連続的な、勝利につぐ勝利の報道に煽られて、国民もその気になっていく。その熱狂は日増しに高まっていく」 (P118)

当時、新聞やラジオが「権力をチェックする」という役割を捨て去ると、あっという間に日本社会全体が雪崩をうって戦争へと突き進んでいったのである。

上記のジャーナリストたちの記者会見では、ジャーナリストの田勢康弘さんの次の言葉も紹介されていた。

「ジャーナリズムは死にかけている。何よりも恐ろしいのは権力の意向をメディアがそんたくして追従することだ」

敗戦から70年余りが過ぎ、再び、日本のメディア・ジャーナリズムから「否定性」の機能が失われようとしている。


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