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2016年4月の記事

2016年4月14日 (木)

「『集う』と『群れる』は違います。個は集い、大衆は群れる」

前回のブログ(4月13日)の続き。

前回では、作家の桐野夏生さんによる「個が強くならなければ“公共”は生まれない」という指摘から考えてみた。

次の言葉も同じ指摘。批評家の若松英輔さん朝日新聞(3月8日)より。

「今、改めて『個』であることの重要さを考えています。この自覚を深めることで、他者との理解を深めていくのではないでしょうか」

そして、若松さんの次の指摘も非常に興味深い。

「『集う』と『群れる』は違います。個は集い、大衆は群れる」

「『群れる』と人は、個々の心にある苦しみや悲しみを十分に顧みることができなくなる。この問題よりも、世に言う『大きな』ことの方が重要に見えてくる」

確かに、日本人は「群れる」ことは日常茶飯事にするが、なかなか「集う」ことをしない。それは「広場」がないことにも通じる。(『広場と民主主義』

個が軽視される、この日本社会。さて、私たちは、どうしていけばいいのか。

改めて作家の桐野夏生さん朝日新聞(4月12日)より。

「日本の現状ではむしろ、もっと個を強くしていくべきじゃないですか。どんどん『私』を主張すればいい。しっかりした個の土台の上に、ほんものの公共は育まれていくと思います」

これは以前、紹介したドキュメンタリー映画監督の海南友子さんが東日本大震災後の社会について語った言葉と同じである。改めて、その言葉を。朝日新聞(3月12日)より。(3月26日のブログ

「誰かに任せておくのではなく、地域や国について自分なりに考え、おかしいと思ったら口に出していく。それは『公』を取り戻していく作業だと思います。そして、そこから『公』も変わっていくのではないだろうか―」

哲学者の鷲田清一さん。学長を務める京都市立芸術大の卒業式(3月23日)の式辞より。


「だれをも『一』と捉え,それ以上とも以下とも考えないこと。これは民主主義の原則です。けれどもここで『一』は同質の単位のことではありません。一人ひとりの存在を違うものとして尊重すること。そして人をまとめ,平均化し,同じ方向を向かせようとする動きに,最後まで抵抗するのが,芸術だということです」

ラジオパーソナリティの吉田照美さん今朝の朝日新聞(4月14日)より。

「権力に都合のいい流れをつくらないためには、やっぱり一人ひとりが考えなければなりません。世の中にあふれる情報の中から自分に必要な情報を感知するアンテナを磨くのも個人です」

「確かに僕は偏ってます。当然です。そもそも人はみな偏っているものですから。偏り具合が違うだけです。すべての人が同じ考えだなんてありえないし、気持ち悪い」


作家の辺見庸さん著書『いま語りえぬことのために』より。

「『われわれ』とか『みんな』という集合的人称を信用してはいけない。そういう幻想への忖度、気遣いというものがいかに事態を悪くしているか。自分で少し自信がないなと思っても、声をあげて言う。モグモグとなにか言う。あるいは、つっかえつっかえ質問する。理不尽な指示、命令については、『できたらやりたくないのですが……』と、だらだらと、ぐずぐずと、しかし、最後まで抗うしかないと思います」

2016年4月13日 (水)

「個がなければ公への認識は生まれない。公への奉仕が強制的に求められるとしたら、ファシズムです」

このブログでは、日々の生活のなかで印象に残った色んな人たちの言葉を並べている。そこから共通に見えるものについて考えたりしている。

このブログを続けながら、僕は「公共とは何だ?」ということについて考えていることが多いと思う。

きのうの朝日新聞(4月12日)には、『公共のゆくえ』と題した特集記事が載っていて、作家の桐野夏生さんがインタビューに答えていた。そのインタビューから。

「公共性とは、いったい何なのか。公共という語が都合よく使われている気がします」

「私たちは、それほど個人として認識されているのでしょうか。一人ひとりの顔が非常に見えにくいですよ。この社会は」

「自分のことを振り返っても、日本は女性が個人として自由に生きつらい国です」

「個がなければ公への認識は生まれない。公への奉仕が強制的に求められるとしたら、ファシズムです」


司馬遼太郎さんも次のように指摘する。NHKスペシャル『司馬遼太郎思索紀行 この国のかたち』(2月19日放送)より。

「立憲国家は、人々、個々の、つよい精神が必要なのです。戦後日本は、まだまだできていません」

しかし、どうやら今の日本では、さらに「個」が存在しにくい風潮が強まっているようである。

 ライターの武田砂鉄さんの今の政権に対する指摘。著書『紋切型社会』より。

「彼らの想定する『私たち』とは個人ではない。『I』の集積ではない。集いまくって『I』を『We』にするのではなく、『We』が切り刻まれて『I』になっていくという算段だ」 (P120)

「目立つ個に個が吸収されて全体化していく、これは個人主義でもなければもちろん民主主義でもない。全体化の後に残るのは、大量のまったく曖昧な単体である」 (P123)

「個」がなくなって曖昧な単体となる…。これは、昨今、政府の締め付けに対して、グズグズになっているメディアの構図と同じである。

TBS『報道特集』キャスターの金平茂紀さん雑誌『世界』5月号より。

「本来は『内部的自由』を確保していたはずの記者やディレクターたちが、組織を守るという大義名分のもとで、個を滅却して組織の論理に進んで従う。自主規制、忖度、過剰なコンプライアンス遵守が横行して、言葉・表現の自由がまさに自壊しかかっているのではないか」 (P71)

作家の森達也さん。ハンナ・アーレントを引き合いに「公共」について述べた言葉雑誌『現代思想』(2015年2月号)より。

「公共の場が特定の色に染まってしまう状況は、望ましくない。というか、同質的な者しかいなくて、まるで全体で『一人』のようになってしまった社会的な場は、もはや公共的空間ではない」

「多様な人が同じテーブルにつき、みんながいろいろな意見を持ち、それぞれが発言できるような状況、それぞれの人が固有名をもって現れるような状況が、アーレントの観点では、公共空間です」


「ところが、日本の場合はそうじゃないんですね。日本社会ではみんな一致していることが望ましい状況とされます」 (P194)

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