「『集う』と『群れる』は違います。個は集い、大衆は群れる」
前回のブログ(4月13日)の続き。
前回では、作家の桐野夏生さんによる「個が強くならなければ“公共”は生まれない」という指摘から考えてみた。
次の言葉も同じ指摘。批評家の若松英輔さん。朝日新聞(3月8日)より。
「今、改めて『個』であることの重要さを考えています。この自覚を深めることで、他者との理解を深めていくのではないでしょうか」
そして、若松さんの次の指摘も非常に興味深い。
「『集う』と『群れる』は違います。個は集い、大衆は群れる」
「『群れる』と人は、個々の心にある苦しみや悲しみを十分に顧みることができなくなる。この問題よりも、世に言う『大きな』ことの方が重要に見えてくる」
確かに、日本人は「群れる」ことは日常茶飯事にするが、なかなか「集う」ことをしない。それは「広場」がないことにも通じる。(『広場と民主主義』)
個が軽視される、この日本社会。さて、私たちは、どうしていけばいいのか。
改めて作家の桐野夏生さん。朝日新聞(4月12日)より。
「日本の現状ではむしろ、もっと個を強くしていくべきじゃないですか。どんどん『私』を主張すればいい。しっかりした個の土台の上に、ほんものの公共は育まれていくと思います」
これは以前、紹介したドキュメンタリー映画監督の海南友子さんが東日本大震災後の社会について語った言葉と同じである。改めて、その言葉を。朝日新聞(3月12日)より。(3月26日のブログ)
「誰かに任せておくのではなく、地域や国について自分なりに考え、おかしいと思ったら口に出していく。それは『公』を取り戻していく作業だと思います。そして、そこから『公』も変わっていくのではないだろうか―」
哲学者の鷲田清一さん。学長を務める京都市立芸術大の卒業式(3月23日)の式辞より。
「だれをも『一』と捉え,それ以上とも以下とも考えないこと。これは民主主義の原則です。けれどもここで『一』は同質の単位のことではありません。一人ひとりの存在を違うものとして尊重すること。そして人をまとめ,平均化し,同じ方向を向かせようとする動きに,最後まで抵抗するのが,芸術だということです」
ラジオパーソナリティの吉田照美さん。今朝の朝日新聞(4月14日)より。
「権力に都合のいい流れをつくらないためには、やっぱり一人ひとりが考えなければなりません。世の中にあふれる情報の中から自分に必要な情報を感知するアンテナを磨くのも個人です」
「確かに僕は偏ってます。当然です。そもそも人はみな偏っているものですから。偏り具合が違うだけです。すべての人が同じ考えだなんてありえないし、気持ち悪い」
作家の辺見庸さん。著書『いま語りえぬことのために』より。
「『われわれ』とか『みんな』という集合的人称を信用してはいけない。そういう幻想への忖度、気遣いというものがいかに事態を悪くしているか。自分で少し自信がないなと思っても、声をあげて言う。モグモグとなにか言う。あるいは、つっかえつっかえ質問する。理不尽な指示、命令については、『できたらやりたくないのですが……』と、だらだらと、ぐずぐずと、しかし、最後まで抗うしかないと思います」